神武寺
目 次
神武寺
(じんむじ)
1300年の歴史を持つ天台の古刹。源頼朝も崇敬した霊場。
静けさに包まれて、豊かな歴史に育まれた山と森と古刹をゆきたい、という方におすすめします。鎌倉市に隣接する逗子市の山中にあり、京急「神武寺駅」、JR「東逗子駅」から海抜約83mの本堂を目指します。参道も見所ですので、下部フォトギャラリーは堂宇とそれぞれの参道をわけて掲載しています。
※平成29年4月28日(金)〜5月28日(日)まで33年に一度の薬師三尊像御開帳が行われています。
エリア逗子・葉山
住 所神奈川県逗子市沼間2-1402
創 建724年(神亀元年)
アクセス(表参道)JR「東逗子駅」下車、徒歩25分。(裏参道)京急「神武寺駅」下車、徒歩30分。(法勝寺口・舗装路)JR「東逗子駅」下車、徒歩20分
東逗子駅(神奈川)
724年(神亀元年)に遡る古刹
正式名称は醫王山来迎院神武寺(いおうざん らいごういん じんむじ)。修験道の霊場ともされた山中にある天台宗の寺院です。724年(神亀元年)、行基菩薩が聖武天皇の命により十一面観音、釈迦如来、薬師如来の3つの像を彫り祀ったのが起こりといわれています。その後、857年(天安元年)に、慈覚大師円仁により天台宗に改宗されました。
慈覚大師円仁は794年(延暦13年)下野国(現在の栃木県)の豪族である壬生氏に生まれました。15歳で比叡山に登り最澄の弟子となり、その後入唐し9年の修行を積みます。854年(斉衡元年)、61歳の時に延暦寺座主となり清和天皇に菩薩戒を授けたといいます。866年(貞観8年)71歳にて没し、日本初の大師号・慈覚大師の諡号(しごう)が授けられた名僧です。神武寺の他、日光山、岩手県の中尊寺、毛越寺など数々の寺院の開祖・中興となっています。
少し話はそれますが、鎌倉市(現在の行政区分による)最古の仏地である杉本寺もまた、同じ行基菩薩によって734年(天平6年)に開かれました。他にも、この時代に行基菩薩により開かれた寺社が鎌倉とその周辺にはいくつかあります。721年(養老5年)創建の岩殿寺(逗子市)、710年(和銅3年)創建の甘縄神明神社(鎌倉市)、同じく744年(天平16年)の満福寺(鎌倉市)などがそれで、当時から鎌倉一帯が東国における重要な都市であったことが伺われます。
神武寺のある山は凝灰岩(ぎょうかいがん)からなっており、その神々しい姿から古くは寺名の由来ともなった「神之嶽(こうのたけ)」といわれ山岳信仰の霊場として敬われてきました。いまは埋め立てられて海岸線が遠いですが、昔は海岸線がわりと近かったようです。周囲の残念な近代建築ももちろんなかったわけですから神々しい山だったことでしょう。
山麓にある法勝寺のあたりには幼少時より東国に下り、関東を膝下にまとめた源頼朝の父、義朝の屋敷である沼浜邸があったといわれています。鎌倉市の扇ガ谷にある現在寿福寺となっている場所とともに鎌倉における義朝屋敷跡です。
1590年(天正15年)、豊臣秀吉の小田原攻めによって諸堂は焼失してしまいますが、1598年(慶長3年)には薬師堂が再建され、その後も他の堂宇が再建されて現在の姿となりました。鎌倉幕府が滅び、室町、江戸と時代は変わっても霊場として信仰を集め、江戸時代には幕府の寄進を受けて寺勢を維持してきました。
神武寺境内と文化財
神武寺及び山稜一帯には文化財が多数あります。逗子市教育委員会の説明は以下のとおりです。
「「薬師堂 付棟札(つけたりむなふだ)」(建造物)や「みろくやぐら」(史跡)など、多くの文化遺産が神奈川県及び逗子市の重要文化財として指定されており、その内容は彫刻、工芸品、天然記念物など多岐に及びます。また、山稜一帯が埋蔵文化財包蔵地(遺跡)「神武寺城郭遺構」(逗子市No.73遺跡)として知られています。」
客殿宝珠殿
阿弥陀三尊を祀る、神武寺の本堂です。857年(天安元年)に慈覚大師円仁によって天台宗に改宗されて以来の本堂ということになるのでしょうか。上からみることはできますが、本堂へと降りる階段には「立入禁止」の札があり、中に入ることはできません。
薬師堂
遠く1300年の古、聖武天皇の命により行基菩薩が安置した薬師三尊や、十二神将像、行基菩薩像が安置された神武寺の原点。以下、境内立札の文面です。
「薬師堂は医王山・神武寺の名の通り、薬師信仰の中心です。現在は銅葺屋根ですが、昔の茅葺屋根の葺き替え工事の「棟札」には慶長3年(1598年)の年号が残されており、薬師堂は逗子では古くからの建築物の一つです。(神奈川県重要文化財)
「お薬師のお力によって、衆生の病苦が救われる」と信じられた薬師信仰が、極楽浄土を求める阿弥陀信仰と共に盛んでした。吾妻鏡にも源頼朝や政子が篤く信仰したことが記されています。薬師堂の薬師三尊像(逗子市重要文化財)は秘仏で、本来は33年に一度ご開帳されます。また、年の暮れ12月13日には毎年すす払いがあり、ご本尊拝観のチャンスがあります。
※平成29年は御開帳の年にあたり、4月28日(金)〜5月28日(日)まで御開帳が行われています。
薬師堂脇の鷹取山ハイキング道の左手には「女人禁制」の石柱があり、修験者(山にこもって心身を鍛える行者)がこの山で修行したことが分かります。こういった歴史は外連味や思惑を挟まず、ただそのまま保持してもらいたいものです。
総門
1733年(享保18年)のものといわれています。もとは表参道へと至る東逗子駅近くの踏切を渡ったところにあったそうです。第二次世界大戦に際して表参道の登り口(現在石塔があるあたりでしょうか)に移され、1975年(昭和50年)現在の場所に移されました。
鐘楼
1859年(安政6年)の建物。「神武寺の晩鐘」として逗子八景の一つとなっています。梵鐘はもともと1623年(元和9年)に造られましたが、第二次世界大戦の際に供出され、現在のものは昭和25年に造られました。
楼門
薬師堂前にある、落ち着いた朱が印象的な門。1761年(宝暦11年)に建立されました。
神武寺へと登る参道は3つ
最寄駅であるJR「東逗子駅」や京急「神武寺駅」付近の海抜は約12m、山頂の神武寺は同約83mですから70mほど登ることになります。森が深く最も自然豊かなのは京急「神武寺駅」からの裏参道、次にJR「東逗子駅」からの表参道、最後は山道がなく体力に不安のある方でも登りやすい舗装路の法勝寺口です。ちなみに背後の鷹取山は海抜約123mです。
表参道
JR「東逗子駅」の改札を出たら右に進み、踏切を渡ります。緩やかな上り坂を真っすぐ歩くと右手に「天台宗 神武寺」の石塔があります。石塔右手の道に入り、少し歩くと舗装路はおわり山道になります。この石塔から約10〜15分で神武寺に到着します。半分程度が舗装路となって山道も裏参道よりも整備されていますから歩きやすい道です。
裏参道
京急「神武寺駅」を出たら通りを左に曲がり線路に沿って約550m/7分ほど歩くと右手に「逗子中学校」の看板がみえてきます。その足元に「神武寺・鷹取山ハイキングコース」の小さな看板がありますから、それに従い右に進みます。逗子中学校に沿って舗装路を歩くと老人ホームがみえてきます。そこから山道に入ります。
湧き水が沢になっており、森と水に癒されながら20分程登ると神武寺山門に出ます。登りやすく距離も短いため、普段着にスニーカーで気軽に足を運ぶことのできる山道ですが、ところどころ滑りやすくなっていますから注意してください。
法勝寺口(舗装路)
JR「東逗子駅」改札を出て右に進み、踏切を渡ったらまたすぐ右、線路に沿って歩きます。そのまま道なりにいくと左手に法勝寺の看板がみえますから、その手前を左に入ります。駅から約1.1km程いったところで神武寺参道の看板があり、道が急な上りになります。これを5分程上ると神武寺につきます。
源頼朝、実朝と神武寺
1300年の歴史を有する神武寺は源頼朝、実朝とのゆかりを持っています。源頼朝は妻政子の産気の際(実朝が産まれる時)、各所の寺社に神馬を奉り、誦経をさせています。また、実朝が同じ逗子の岩殿寺とともに参拝しています。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の該当部分を読み下しにしてみます。
1192年(建久3年)8月9日
早旦以後に御台所御産の気あり。御加持は宮の法眼、験者は義慶房、大学房等。鶴岡、相模の国の神社仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。所謂、
福田寺(酒匂)、平等寺(豊田)、範隆寺(平塚)、宗元寺(三浦)、常蘇寺(城所)、王福寺(坂下)、新楽寺(小磯)、高麗寺(大磯)、国分寺(一宮下)、弥勒寺(波多野)、五大寺(八幡、大會の御堂と号す)、寺務寺(神武寺)、観音寺(金目)、大山寺、霊山寺(日向)、大箱根、惣社(柳田)、一の宮(佐河大明神)、二の宮(河匂大明神)、三の宮(冠大明神)、四の宮(前祖大明神)、八幡宮、天満宮、五頭宮、黒部宮(平塚)、賀茂(柳下)、新日吉(柳田)
1209年(承元3年)5月15日
神嶽(神武寺)並びに岩殿の観音堂(逗子の岩殿寺)に御参り。御還向の間、女房駿河の局の比企谷の家に渡御す。山水納涼の地なりと。
神武寺周辺の岩隙(がんげき)植物群落
神武寺のある山地は特殊な自然の姿を残した貴重な地域です。逗子市教育委員会の説明は以下のとおりです。
「神武寺周辺の山地は、海底に堆積した泥砂が凝固した堆積岩(三浦層群)が隆起して形成されています。渓谷の斜面や切通しなど、岩肌の露出した日陰には、独特な植物が生育し、これらの植生を岩隙(がんげき)植物群落と総称します。特に神武寺境内では、コモチシダ、イワトラノオ、ミツデウラボシなどの羊歯(しだ)植物や、これらの羊歯類に類似した生き方をするイワタバコが常に生育し、この群落を特徴付けています。この群落は、乾燥しやすく水の確保が難しい環境下で、岩隙からにじみ流れる水分で生育しており、このような特殊な環境は、三浦半島ではたいへん希少です。」