石橋山古戦場

目 次

石橋山古戦場

(いしばしやまこせんじょう)

源頼朝挙兵、最初の合戦

治承4年(1180年)8月20日、源頼朝は挙兵し、伊豆国目代山木兼隆を討ち取ります。その後、相模国へと兵を進める頼朝は、大庭景親率いる平氏方の多勢と石橋山合戦を行ないました。

海岸線(国道135)近くにある石橋山古戦場の石碑。

海岸線(国道135)近くにある石橋山古戦場の石碑。

エリア小田原・箱根
住 所神奈川県小田原市石橋
アクセス「小田原駅」より、バス「石橋」下車、徒歩13分

〒250-0023 神奈川県小田原市米神136 文三堂

〒250-0022 神奈川県小田原市石橋420 佐奈田霊社

〒250-0022 神奈川県小田原市石橋

風光明媚な古戦場

石橋山古戦場は、神奈川県小田原市の海岸を見下ろす小高い山にあります。 車でいく場合は、海岸沿いの国道135号線をゆき途中分岐を(小田原方面からいくと)右に入ります。それほど目立ちませんが標識があったと思います。グーグルマップで「石橋山古戦場」と入れるとヒットしますので、筆者はこれを使っていきました。

電車・バスでいかれる場合は、小田原駅からバスに乗り、「石橋」バス停で下車し、13分ほど歩くそうです。

先に周辺情報

石橋山古戦場は周辺一帯を指すようですが、石碑がありますから迷うことはないと思います。近くには、佐奈田霊社、文三堂、ねじり畑など石橋山合戦に関する史跡が点在しています。特に佐奈田霊社は海を見下ろす場所にあり、静かな風情が豊かな想像力と信心を起こさせてくれます。

石橋山合戦

本ブログは現在の行政区分である鎌倉市はもちろん、源頼朝の創った「鎌倉」を追いかけてみたいという気持ちから始めました。そういった意味では、石橋山古戦場は小田原市にありますが「鎌倉」ド真ん中といえます。

治承4年(1180年)4月27日、伊豆に配流となっていた源頼朝のもとに以仁王による平氏追討の令旨が届きます。同年8月20日、頼朝は伊豆において挙兵、伊豆国目代山木兼隆を討ち取り、そのまま相模国(神奈川県)へと兵を進めます。

8月23日、頼朝は石橋山に陣を構えます。平氏方の大庭景親もまた石橋山の谷を挟んで反対側に陣を構えました。到着が遅れていた三浦一族の軍勢が合流することを恐れた平氏方の大庭景親は黄昏時をおして頼朝勢に襲いかかるのでした。

三浦一族の到着を待つ頼朝勢は三百騎、平氏方大庭勢は三千騎。頼朝の忠臣たちは命をかけて戦いますが、多勢に無勢、退却を余儀なくされます。

8月24日、頼朝勢は椙山(杉山)の内の堀口辺りに陣を構え、再び大庭景親率いる三千騎と合戦となり、頼朝勢は敗れます。頼朝は山中に潜むなどして討手の追撃を逃れ、箱根権現(現 箱根神社)らの助けも受けつつ、8月28日真鶴岬(現 神奈川県足柄下郡真鶴町岩)から船に乗り、8月29日安房国平北郡猟島(現 千葉県安房郡鋸南町竜島)に到着しました。

頼朝麾下には現在の湯河原駅あたりに館を持ち周辺を治めていた土肥実平がいました。頼朝は土地に通じた実平の活躍により、大庭勢の追撃をかわすことができました。

安房に上陸した頼朝は、ご存じのとおり再起。大軍を率いて鎌倉入りし、治承・寿永の乱を治め「鎌倉」という新しい日本の形を創っていきます。

鎌倉幕府公式記録『吾妻鏡』に記された石橋山合戦の様子

治承4年(1180年)8月23日 曇り、夜に入り激しい雨
今日寅の刻(午前4時頃)、武衛(源頼朝)、北條殿(時政)父子・安達盛長工藤茂光土肥實平以下は三百騎を率い、相模国石橋山に陣を張った。頼朝の御旗には以仁王による平氏追討の令旨が付けられ、中原中四郎惟重これを持った。又頼隆白い幣(しで)を上箭(矢)に付け、御後(頼朝の後)に控えた。
平氏方も同じく石橋山、谷一つ隔てた場所に陣を張った。同国住人大庭景親・俣野景久・河村義秀・渋谷重国・糟屋盛久・海老名季員・曽我助信・瀧口経俊・毛利景行・長尾為宗・長尾定景・原景房・原義行、並びに熊谷直實以下、三千余騎の精兵であった。
大庭景親率いる平氏方の中で、飯田家義は源頼朝に志を通じており、頼朝の御前に参じようとしていたが、平氏方の兵士が道に連なり、抜け出せなかった。
また、伊東祐親法師は三百余騎を率いて、武衛(源頼朝)の陣の背後にある山におり、頼朝勢に襲いかかろうとしていた。
頼朝勢に合流すべく道を急ぐ三浦一族は、到着が遅くなるため丸子河(現在の酒匂川)の辺に宿した。郎従等を遣わて景親が党類の家屋を焼き払った。その煙が空を覆うのをみて、大庭景親率いる平氏方は、三浦一族の仕業であると知った。そこで「今日はすでに黄昏時ではあるが、合戦を急ぐべきだということになった。」明日となれば、三浦一族が源頼朝の陣に加わり、これを破るのは難しいとの意見だった。
そして、数千の強兵が武衛(頼朝)の陣に襲いかかった。頼朝の軍勢は平氏方の大軍とは比べものにならない程少なかったが、皆旧好を重んじ、ただ命をとして戦った。佐奈田余一義忠、武藤三郎、及び郎従豊三家康等が戦死した。

景親率いる平氏方はいよいよ勝ちに乗った。明け方、武衛(頼朝)は椙山(杉山)の中に逃れしめ給う。疾風に心を悩まし、暴雨に身をさらした。景親はさらに追撃し、矢や石を発った。頼朝に志を寄せていた飯田家義は平氏方の陣中にあったが、武衛(頼朝)を救おうと、家来六騎を平氏方と戦わせ、この隙に頼朝は椙山(杉山)に入った。

治承4年(1180年)8月24日

源頼朝は椙(すぎ)山の内の堀口辺りに陣を構えた。大庭景親は三千騎を率いて襲いかかってきた。頼朝は後方の峰に逃げた。この間、加藤景廉、大見実政が景親の軍勢を防いだ。しかし、加藤景廉の父 景員、大見実政の兄 政光はおのおの子を思い弟を憐れみ、前進せず矢を放った。他にも加藤光員、佐々木高綱天野遠景・光家、堀親家・助政らが同じく轡(くつわ)を並べ戦った。景員以下の馬、多くは矢にあたり倒れて死んだ。

頼朝は馬を廻し、百発百中の矢を放ち多くの敵を射殺した。矢が尽き、加藤景廉が頼朝の馬の轡(くつわ)をとり、山の深い所へ引き申したところ、景親の軍勢が4、5段の距離に近づいてきた。佐々木高綱天野遠景加藤景廉らは幾度か戻りながら矢を放った。北条父子三人(時政、宗時、義時)は景親と戦い疲労困憊、山の峯に登ることができず、頼朝に付き従うことができなかった。そこで加藤景員・光員・景廉、工藤祐茂、堀親家、大見実政らは、北条父子に助力をすると申し出たが、時政は「それはいけない、早く頼朝のもとに戻るように」と命じた。彼らは、数町の険しい山道をよじ登り奔走したところ、頼朝は倒木の木の上にお立ちになり、土肥実平がその傍らに控えていた。

景員らが参上すると頼朝はこれを喜んだ。土肥実平は「おのおの無事参上したことは喜ばしいことだが、この人数を率いて山に隠れることは難しい。頼朝の御身だけはたとえ幾月かかろうともいえども、実平が計略をもって隠し通します」といった。それでも景員らは頼朝の側にお供したいと申し上げると、頼朝もまたそれを許す気配であった。土肥実平は重ねていった。「いまの別れは後の大幸となろう。命ながらえて計略を巡らさば会稽の恥を雪(すす)ぐことができるでしょう」。これを聞いて皆は分散することになった。悲しみは涙となり目を遮り、行くべき道が見えぬほどであった。

その後、飯田家義が頼朝の跡を追い参上し、頼朝の御念珠を持参した。これは今朝の合戦の時に路頭に落としたものである。常日頃お持ちになっていたものであり、狩倉(狩場)の辺りにて相模国の武士の多くが拝見していたものであった。見当たらずにあわてていたところ、家義が探しだしたため、頼朝の感謝は再三に及んだ。家義は頼朝のお供をしたいと申し上げたが、実平は先のごとく諌めたため泣く泣く退去した。

北条時政義時は箱根湯坂を経て甲斐国に向かおうとしていた。北条宗時は早河の辺りにおいて伊東祐親法師の軍勢に囲まれ、小平井の名主紀六久重により討ち取られた。工藤茂光は歩行困難となったため自害したという。頼朝の陣と彼らの戦場が山谷を隔てていたためどうすることもできず、悲しみは大変深かった。

大庭景親は頼朝の跡を追って、峯や谷を探していた。この時、梶原景時という者がおり、頼朝の居場所を知っていたが情けをかけるところがあり、この山に人の跡はないと偽りの報告をし、景親の軍勢を違う峯に向かわせた。この時、頼朝は髻(もとどり)の中の正観音像を取り出し、ある巌窟に安置した。土肥実平がその真意を伺ったところ、「自分の首が大庭景親等に渡った時、この本尊をみて源氏大将軍のすることではないと人々の嘲りを受けるであろう」と仰った。この正観音像は、頼朝三歳の昔、乳母が清水寺に参籠し頼朝の将来を祈ったものである。その時、27日を経て霊夢のお告げがあり、こつ然として二寸の銀の正観音像を得たものであり、以来帰依し崇敬しているところであった。

夜になり、北条時政が杉山の頼朝陣に到着した。箱根山の別当行実は、弟の僧、永実に御駄齣(だしょう=食事)を持たせて頼朝のもとに遣わした。永実は頼朝に会う前に北条時政に会って頼朝の動向を聞いた。時政がこういった「頼朝は大庭景親の包囲を逃れておりません」。永実はこたえた「あなたは永実の短慮を疑っているのでしょうか。もし頼朝が亡くなっていれば、あなたもまたいきてはいないでしょう」。時政は笑って永実を頼朝ののもとに連れて行き、食事を御前に持参した。皆が餓えているときであったので、値は千金であった。土肥実平は世が落ち着いたならば、永実を箱根山の別当職に任じられるべきでしょうと。頼朝はこれを許諾した。その後、永実を共として密かに箱根山に到着した。行実の宿坊は参詣の群衆がおり、密かに隠れるには向かないということで永実の宅に頼朝をご案内した。

この行実というのは、父良尋の時代に源為義(頼朝の祖父)や源義朝(頼朝の父)らと親交があり、これにより行実は京都で父に譲られ箱根山の別当となり、京都から箱根に向かった時、為義の下文に東国の輩は行実を助けるように、とあり義朝の下文は「駿河・伊豆の家人らは行実が催促したときはこれに従うように」。そして頼朝が北条(伊豆蛭ヶ小島の配所)にいる間、頼朝のために祈禱を行い忠義を尽くしてきた。石橋山合戦敗北の報を聞き、一人愁い嘆いていた。弟達が弟たちは多かったが、武芸の器量がある永実を頼朝のもとに遣わせた。

(頼朝の挙兵に呼応すべく)城を出た三浦一族は丸子河(現在の酒匂川)の辺りに来て、昨夜から夜明けを待って参上しようとしてたところ、石橋山合戦における敗北を聞き、思いがないことに急遽引き返した。その途中、由比浦(由比ヶ浜)において畠山重忠と数刻にわたり戦った。多々良重春と郎従石井五郎らが命を落とした。重忠勢は50騎余りが討ち取られ、退去した。三浦義澄らの三浦勢は三浦へ引き返した。この間に上総広常の弟、金田頼次以下70騎が義澄の軍勢に加わった。

石橋山古戦場フォトギャラリー

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