木曽塚

(きそづか)

木曽義仲の子、義高の墓と伝わる場所

平氏を京から追い出した木曽義仲の子、木曽義高の墓といわれる場所が、大船 常楽寺の近くにあります。

木曽塚。

木曽塚。

エリア大船・玉縄
住 所鎌倉市大船5-8-29(常楽寺)
アクセス「大船駅」よりバス「常楽寺」下車すぐ、もしくは「大船駅」・「北鎌倉駅」より徒歩20分

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常楽寺のそばにある木曽塚は、朝日将軍と呼ばれ京から平氏を追い出し「都落ち」させた木曽義仲の子、義高の墓所といわれています。常楽寺の門の左脇にある路地を進み、常楽寺の裏山にあります。

木曽義高は、源氏棟梁格の嫡男であったがゆえに、平氏、源氏、後白河法皇それぞれが戦った治承・寿永の乱に翻弄された悲運の主人公でした。

父・義仲の活躍と頼朝との対立

義仲は木曽を名乗っていますが、源頼朝と同じ河内源氏の流れに属する信濃源氏の棟梁であり、源頼朝とは従弟の間柄です。

平清盛を頂点とする平氏の専横に対して以仁王と源頼政が立ち上がった時、全国の源氏に平氏打倒の令旨を発しますが、その時、源頼朝、源(武田)信義とともに源氏棟梁格の一人が源(木曽)義仲でした。

木曽義仲以仁王の遺児、北陸宮を奉じて北陸、信濃に勢力を広げていました。この頃、頼朝に反旗を翻していた頼朝の叔父である志田義広と源行家を庇護したことにより頼朝との対立が決定的となっていました。

これを解消するため、寿永2年(1183年)3月、義仲は当時11歳だった嫡子義高を人質として鎌倉に送り、義仲と頼朝は和解しました。義高の人質は頼朝の娘大姫の婿という名目で実施されました。

頼朝との和解を成立させた義仲は、翌4月、倶利伽羅峠の戦いにおいて平氏の大軍を破り、7月には平氏を「都落ち」させ入京しました。

木曽塚の主、義高の父義仲は入京までは快進撃でしたが、入京後、朝廷や後白河法皇と対立したため義仲追討の院宣が下されることとなりました。これを受けた頼朝は弟の範頼と義経を代官とする義仲追討軍を派遣、寿永3年(1184年)1月、粟津において義仲は追討軍に討たれます。

父・義仲が討たれ、立場をなくした義高

人質として源頼朝のもとに置かれていた木曽義高ですから、父 義仲が頼朝に反目する志田義広と源行家を庇護した時点で、おそらく立場は綱渡り状態だったと想像できます。さらに、義仲が逆賊として頼朝に討たれたことにより、普通に考えれば誅殺でしょう。頼朝の娘 大姫の婿という名目など役には立ちません。

平清盛源頼朝の命をとらなかったために、平氏は頼朝に滅ぼされたことを考えれば、それが時代の流れとはいえ、より一層義高を許す理由は見当たりません。12歳という年齢を考えれば可哀想ではありますが、信濃源氏当主の血筋に生まれ、治承・寿永の乱に直面した悲運としかいいようがありません。

大姫と母 政子の話

ここで、もう一つの話が出てきます。頼朝の娘 大姫の婿という名目どおり、義高と大姫が惹かれ合い、母の政子がこれに情をかけたという話です。昔、石坂浩二が頼朝を演じた大河ドラマでも、視聴者受けを狙ってこの話に結構な時間を割いていました。

さて、父 義仲が討たれた3か月後の4月21日、頼朝が義高を誅殺すると聞いた大姫は馬を手配し義高を鎌倉から逃します。頼朝はこれに怒り(当然でしょう)、討手を差し向けます。義高は武蔵国で捕らえられ、入間の河原(現在の埼玉県狭山市入間川)において誅殺されました。

大姫は義高が討たれたことを悲しみ、病となり床に伏してしまいました。政子は、大姫が病となったのは義高を討った藤内光澄という討手の不始末だと頼朝に迫り、光澄はなんと晒し首になってしまいます。

しかし、頼朝を冷酷で責任を部下に押し付ける人物に描き、北条政子(や義経)を強くみせるこの手の話は、源頼朝の傑物ぶりを知れば知る程、胡散臭く感じます。色々な話の元になっている鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』が北条執権政治時代に書かれたことも、影響があるのでしょう。

木曽塚の隣には姫宮塚という小塚があり、北条泰時の娘のものであるとか、大姫のものであるといわれています。また、義高が討たれた埼玉県の入間川には、義高を祀った清水八幡宮が現在でも鎮座しています。

木曽塚フォトギャラリー

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