伊豆山神社
目 次
伊豆山神社
いずさんじんじゃ
鎌倉幕府最高の崇敬社
源頼朝が深く帰依した関東鎮護。二所詣(伊豆山神社・箱根神社)の一
エリアその他
住 所静岡県熱海市伊豆山708-1
御祭神火牟須比命(ほむすびのみこと)、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと) 邇邇芸命(ににぎのみこと)
創 建孝昭天皇の御代(紀元前5〜4世紀)
公式HPhttp://izusanjinjya.jp/
伊豆配流の源頼朝が帰依した大権現
源頼朝と大変に縁の深い神社の一つ。平治の乱に敗れた13歳の源頼朝は、永歴元年(1160年)2月9日、近江国で捕らえられ、同3月11日に伊豆へと配流されました。治承4年(1180年)に挙兵するまでの20年間をこの地で過ごした頼朝は、伊豆山神社(走湯権現)や箱根神社(箱根権現)に深く帰依して読経を怠りませんでした。
北条政子との逢瀬の場となったり、地元の豪族伊東祐親に追われて伊豆山神社に身を寄せたりといったこともありました。また、頼朝と結婚したかった北条政子を父である北条時政が伊豆の目代山木兼隆に嫁がせようとしたため、政子が伊豆山神社に逃げ込むなど、数々のエピソードがあります。
20年間の配流中、源頼朝は父・義朝の菩提を弔ったり、源氏の再興を伊豆山神社に祈願しました。治承4年(1180年)に挙兵した頼朝は、平家を滅ぼして、鎌倉幕府を創成し源氏再興を成し遂げました。その後も二所詣として当社と箱根大権現(箱根神社)に詣でることを慣例としました(三嶋大社を含め三社詣となることもありました)。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にも、度々伊豆山神社(走湯山、走湯権現)の名が登場します。
紀元前5世紀に始まる悠久の歴史
伊豆山神社という名は明治の神仏分離・廃仏毀釈後のもので、頼朝の時代も含めそれまでは伊豆大権現、走湯大権現、伊豆山、走湯山などと呼ばれていました。その歴史は古く、第5代孝昭天皇の御代、紀元前5世紀〜4世紀にさかのぼります。
公式由緒によれば、「祭祀の創まりは遥か上古に遡り、現存する木造男神像(平安時代中期、日本最大の神像)は、『走湯山縁起』が応神天皇の御世に相模国大磯の海に出現し、仁徳天皇の御代に日金山に飛来し祀られたと伝える伊豆大神の御神影をあらわしています。」
第15代応神天皇の生没年は西暦200年〜310年、第16代仁徳天皇の生没年は西暦313年〜399年です。仁徳天皇は伊豆山神社を勅願所とし、第22代清寧天皇(444-484)、第30代敏達天皇(538-585)、第33代推古天皇(554-628)、第36代孝徳天皇(596-654)、第105代後奈良天皇(1495-1557)の勅願所となりました。本宮は、仁徳天皇の時代に松葉仙人が日金山に神鏡を祀る社を造ったことに始まり、承和3年(836年)に今の地に移りました。
修験道の祖とされる役小角(えん・の・おづの、634-701)が修行した場所でもあり、多くの修験者や仏教者が修行を積む霊場であったようです。後白河法皇勅撰の「梁塵秘抄」(平安末期)には「四方の霊験者は伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されています。
関東鎮護の権威
鎌倉幕府を開いた源頼朝は先述のように崇敬を深め、幕府最高の崇敬社である関東鎮護の権威を与えました。境内にある「むかしの伊豆山神社のお話」に詳しく書かれています。そこからほぼ引用させて頂きます。
鎌倉時代・足利時代を通じて栄え、最盛期には64もの僧坊・修験坊があり、3,800名もの僧兵が滞在していたといいます。しかし、戦国時代末期の天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、伊豆山神社は北条氏に味方したため焼き討ちにあってしまいました。
その後、源頼朝を尊敬していたという徳川家康は文禄3年(1594年)から慶長17年(1612年)にかけて高野山の僧快運を招いて伊豆山別当職に任命し般若院の院号を与えて復興にあたらせました。家康の尽力により江戸時代の伊豆山は12の僧坊と7つの修験坊を有するなど復興を果たしました。武家が誓いを立てるときの起請文には、誓詞証明の社として、伊豆山神社の名が必ず連ねられていたといいます。武家の厚い崇敬を受けていたことがわかります。
神仏分離・廃仏毀釈が行われた明治以降も伊豆大神の神威は絶えることなく、大正3年(1914年)1月13日には当時皇太子であられた昭和天皇、昭和55年(1980年)9月12日には当時皇太孫であられた今上陛下が御参拝になられました。
境内
伊豆山神社の参道は浜から続いています。伊豆山浜から海を拝み、走り湯神社に参拝し本殿に至ります。階段の数は837段です。走り湯神社は以前に参拝していたので、今回は市道の駐車場から本殿へと向かいました。(走り湯神社の写真がみあたらず、いずれもう一度お参りして後ほど掲載したいと思います。)
本殿のある平場についたら、赤白二龍の飾られた手水で手を清め本殿に参拝します。本殿の近くには、頼朝と政子が腰掛けたという腰掛石、頼朝・政子に因んだ縁結びの神様がいました。写真映えするようにハートの造形物がありましたが、残念ながら独り。写真のシャッターを中年のご夫婦に頼まれ、快く応じました。
近くには大磯高麗山から道祖神とともに来た神様の降り立つ光り石があります。光のパワーストーンです。「光のパワーを沢山賜って光石にさわったり座ったりして楽しくお参りして下さい」と優しい立て札がありましたので、お言葉に甘えて座らせてもらいました。
他にも伊豆山郷土資料館、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をお祀りする摂社電電社(若宮)や役小角社などの摂社・末社があり、御神木の梛(なぎ)の木・クスノキなどがあります。本殿に参拝したら、山頂の本宮へと向かいます。
本宮
右側からは山頂の本宮へ行くことが出来ます。伊豆山神社には何度も訪れていますが、本宮へと登ったのは初めてでした。車で上ることもできますが、山道を歩いて向かいました。とても清々しい道行きでした。
伊豆山神社本宮への参道は岩戸山ハイキングコースに繋がっていて、岩戸山山頂を越えて日金山、姫の沢公園などに行くことが出来ます。
途中には白山神社、子恋の森公園、結明神社があります。子恋の森(古々比の森)は、伊豆三勝といわれた名勝。清少納言の枕草子にも「杜はこごひ」とあるそうです。凄いですね。NHKの大河ドラマ「草燃える」の原作者である永井路子さんの小説『北條政子』には、ここでの源頼朝と北條政子とのロマンスが描かれています。
写真を取ったり、公園で一服したりしながら歩いて、中年男性の足で45分程度で本宮に到着。神域の神々しさを感じながらお参りしました。本宮社の説明板も大変良かったので、ここに引用させて頂きます。
「関八州総鎮護伊豆山神社は伊豆大権現とも走湯山権現とも呼ばれていました。仁徳天皇の時代に松葉仙人が神鏡を崇め、社を造り日金山に祀り、後にこの社はこの地に移され祀られてまいりました。
さらに承和三年(八三六年)に今の伊豆山神社の社を建造し移ったので、残った二番目の社が現在の本宮社のいわれです。伊豆大権現は江戸時代初期には陸上四里四方、海上見渡す限りといわれるほどの領地を持っておりました。
そして、ここ本宮社には広さ東西五間、南北三間半の拝殿、鳥居三ヵ所、付近に求聞持堂、東西三間南北二間の建造物等がありました。しかし江戸時代後期の野火により全焼し、現在は石鳥居一基、拝殿が一棟建っているのみであります。」
折角紀元前5世紀から続く霊場に来たのですから、歩いてみてはいかがでしょうか。途中に公園があるため御手洗も2か所あります。お弁当を持ってきて公園で食べればよかったと思いました。
赤白二龍
伊豆山神社、箱根神社には龍の伝説があります。手水の近くに説明板がありましたので、引用します。
「赤白二龍の由来
伊豆山神社の縁起「走湯山縁起」(鎌倉期に成立)に拠れば、当伊豆山の地底に赤白二龍和合して臥す。
其の尾を箱根の湖水(芦ノ湖)に漬け、その頭は日金嶺(伊豆山)地底に在り、温泉の沸く所は此の龍の両目二耳並びに鼻穴口中なり(走り湯)。
二龍精気を吐き、赤白海水に交わる、二色浦(熱海錦が浦の名の由来)は此を謂ふなり。
赤白二龍は御祭神 天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の随神であり、赤は火を表し白は水を表す、火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神であります。」