修禅寺
目 次
修禅寺
しゅぜんじ
源頼家、最後の地
第2代鎌倉殿である源頼家は鎌倉を追われ、ここ修禅寺で幽閉・殺害されました。
エリアその他
住 所静岡県伊豆市修禅寺964
宗 派曹洞宗
御本尊大日如来坐像
創 建大同2年(807年)、弘法大師
公式HPhttps://ganjoujuin.jp/index.html
弘法大師が開いた伊豆半島最古の温泉
曹洞宗福地山修禅寺は屈指の温泉として知られる静岡県伊豆市修禅寺にあります。源頼朝の嫡男である第2代将軍・源頼家と頼朝の異母弟である源範頼終焉の地です。
※源範頼の墓については別ページになっています。
修禅寺は、伊豆半島最古の温泉である伊豆修禅寺温泉の中心的存在であり、門前は温泉街です。都心からのアクセスも良く、多くの観光客が訪れます。修禅寺の前には修禅寺川(桂川)が流れ、川縁にはシンボル的な存在の独鈷の湯があり、風流な景色をつくりだしています。芥川龍之介、尾崎紅葉、泉鏡花、田山花袋、川端康成などの文豪にも愛され、作品の舞台ともなりました。
修禅寺は大同2年(807年)、弘法大師により真言宗の寺院として開かれました。その後13世紀に北条時頼により支那にできた国家・宋(※「中国」ではありません。)から招かれた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213-1278)が元寇の時期、密偵の疑いにより各地に移される中で伊豆修禅寺にも入山し臨済宗に改宗しました。室町時代に入ると1489年、北条早雲が一族の隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)を招き、曹洞宗に改宗し現在に至ります。前後の北条氏により崇敬され、栄えてきたことがわかります。
指月殿(源頼家墓所)
北条氏により鎌倉殿の座を追われた第2代将軍源頼家は、修禅寺に幽閉され境内の中湯で北条氏の手勢により殺害されました。「頼家の墓」と、頼家殺害直後に謀反を企てた頼家の家臣たち「十三士の墓」が修禅寺川を挟んで反対側、修禅寺の飛び地境内である「指月殿」(しげつでん)にあります。指月殿は、源頼家の冥福を祈り、母である北条政子が建立しました。昔の修禅寺絵図を見ると、東は横瀬付近から、西は奥の院付近に及ぶ広大な寺領であったことがわかります。指月殿も、もともとは続きの境内でした。
建久10年(1199年)源頼朝が死去すると嫡男・頼家が将軍職を継承し「鎌倉殿」となります。しかし、3か月後には「専横な振る舞い」を理由に訴訟の裁断が禁じられ北条氏ら有力御家人による「十三人の合議制」となりました。
建仁3年(1203年)8月、第2代将軍源頼家は病床にあり、病気を理由に将軍の地位を実朝に譲ることとなりました。頼家の病気がなかなか回復しない中、翌9月2日、頼家の外戚であった比企能員らは「北条時政らが勝手に将軍職を譲位させた」として時政追討を頼家に訴え了承されます。しかし、これを知った北条一族に暗殺され、頼家の後ろ盾であった比企一族は滅亡します。
9月7日、病気も回復しない頼家は出家し、9月29日、鎌倉を終われ伊豆修禅寺に下向した。隋兵300余騎を伴ったと『吾妻鏡』には記されているが、実態は幽閉されたのでした。そして元久元年(1204年)7月18日、幽閉された修禅寺において北条氏の手勢により殺害されました。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』は、「昨日修禅寺の頼家が死んだと飛脚が伝えた」と短い記述を残すのみです。
愚管抄には頼家の殺害について次のように記述しています。〔 〕内は筆者追加文
「その年の十一月三日、ついに義時は捕手をさし向けて一万若君〔頼家の子〕をとらえ、藤馬という郎等に刺し殺させて、なきがらを埋めた。そしてまたつぎの年、元久元年(一二〇四)七月十八日、修禅寺において頼家入道を刺し殺したのであった。急に攻めつけることができなかったので、首に紐をつけ、ふぐりをとったりして殺したと伝えられた。あれこれということばもないほどのことどもである。」
源頼家と側近たちの墓は修禅寺から川を挟んで反対側にある指月殿にあり、修禅寺では毎年7月に「頼家まつり」を行い、頼家主従の墓前供養を今日も欠かさずに行なっています。
源頼家の他にもう一人、修禅寺に幽閉された源氏の血統が源頼朝の異母弟である源範頼(みなもと・のりより)です。範頼は源頼朝の代官として木曽義仲・平家追討の大将軍を務めた人物です。源義経のように朝廷に取り込まれるような不手際も犯さず、畠山重忠や梶原景時など並み居る御家人たちを従えて平家追討を成し遂げた手腕の持ち主です。頼朝からも信頼されていましたが、建久4年(1193年)8月17日、謀反の疑いをかけられ伊豆修禅寺に幽閉されました。その後、誅殺されたとも、生き延びていたとも言われています。「源範頼の墓」は修禅寺近く、梅林の中にあります。こちらも、昔は修禅寺の境内だったと思います。
北条一族の根拠地である伊豆国田方郡北条と修禅寺とは直線距離で約10km、歩いて2時間30分程の距離にありますから、北条氏の強い勢力下にあったでしょう。その上、鎌倉とも比較的近いですから、源頼朝が挙兵して平家を倒した経緯を間近に見ていた北条一族が源頼家、範頼という重要人物の幽閉に修禅寺を選んだこともうなずけます。
御本尊大日如来坐像、源頼家関連の寺宝
源頼家、源範頼を巡礼しながら修禅寺を訪ねるのはとても気持ち良いです。当日は、蛭ヶ小島を巡り、その足で修禅寺に向かいました。温泉街を守るように建つ修禅寺の前には修禅寺川(桂川)が流れ、朱色の虎渓橋と川縁には独鈷の湯があります。これぞ温泉場という風情はほっとさせてくれます。また、道に立って修禅寺を見上げると、この辺り一帯が全て修禅寺の寺領だったことがわかるような風格です。
山門をくぐると、正面に本堂、右側には宝物殿、左に百度石、鐘楼堂があり、なんだかとても穏やかな雰囲気です。本堂などの建物は文久3年(1863年)に焼失、明治13年〜20年にかけて再建されました。御本尊の大日如来坐像(高さ103cm)は承元4年(1210年)8月28日の銘がある実慶の作で、国重要文化財に指定されています。承元4年(1210年)7月8日、源頼家の妻が出家しています。もしかしたら何か関係があるのでしょうか。想像が膨らみます。
毎年11月1日から10日間行われる御本尊の特別拝観に合わせて伺いましたので、本物を見ることができました。鎌倉大仏のような日本人らしい丸顔で温和な御尊顔の大日如来様でした。積み重ねてきた810年の歳月に終始圧倒され、自然と手を合わせたくなります。神仏に対する畏怖が自分の中にあることが確認できて、安堵しました。
修禅寺には数々の宝物があります。源頼家関連では、岡本綺堂が新歌舞伎の傑作「修禅寺物語」を書くきっかけとなった面「頼家の仮面」、「源頼家肖像画」、北条政子が頼家の菩提を葬うために奉納した「宋版放光般若波羅蜜経一巻」などがあり、他にも「北条早雲寄進状」多数が保管されています。ご興味のある方は宝物殿で拝観してみて下さい。おすすめです。
蛭ヶ小島周辺、修禅寺を見物・巡礼して、修禅寺で一泊するか、温泉だけ入ってどこかで野営かキャンプもしくは車中泊でもしようかと思っていましたが、翌朝早い仕事が入って断念。次回は温泉宿を予約して来ようと呟きながら帰路に着きました。