源範頼の墓
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源範頼の墓
みなもとのりよりのはか
平家打倒に大活躍した源頼朝の異母弟
源範頼は、源頼朝の代官、平家討伐軍の大将軍として活躍しましたが、謀反の疑いをかけられ修禅寺に幽閉・誅殺されました。
エリアその他
住 所静岡県伊豆市修善寺
アクセス修禅寺より徒歩約5分
修禅寺梅林に佇む、大将軍の墓
源範頼の墓は伊豆修禅寺にあります。現在は修禅寺から続きの境内ではなく、5分程歩いた修禅寺梅林にひっそりとたっています。昔は源範頼の墓含め、辺り一帯は広大な修禅寺寺領でしたから、途中の民家などもなくもっと良い道行だったでしょう。近くには、源頼家の墓もありますから、あわせて巡礼するのが良いと思います。
源範頼(1150-1193)は、源頼朝の異母弟として源義朝と遠江の遊女の間に生まれました。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)などと呼ばれたり、三河守に任ぜられたことから参州などとも記述されます。治承・寿永の乱では平家討伐軍の大将軍を務め、平家を討ち果たすという大功を挙げ、その後も鎌倉幕府の重鎮として活躍しました。
河内源氏の当主である源頼朝は義朝と熱田大神宮の娘の子として、久安3年(1147年)に生まれ、範頼は久安6年(1150年)生まれですから、3歳年下の弟ということになります。ちなみに義経は平治元年(1159年)生まれです。
源頼朝の弟として、頼朝からも信頼され大活躍した範頼でしたが建久4年(1193年)8月17日、謀反の疑いをかけられ伊豆修禅寺、八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉されてしまいました。
謀反の疑いがかけられる
建久4年(1193年)5月28日、富士の巻狩りにおいて、日本三大仇討ちの一つに数えられる曽我兄弟の仇討ちが起こります。この時、頼朝が討たれたという誤報が入り、嘆き悲しむ頼朝の妻・政子に対して範頼が「後にはそれがしが控えております」といって励ましました。この発言が謀反の疑いをうみます。
鎌倉幕府の公式記録として広く使われている『吾妻鏡』には「後にはそれがしが控えております」発言の記述はありません。wikiによれば「『保暦間記』にしか記されておらず」とのことでした。それがしが控えております発言はないにしても、『吾妻鏡』には範頼が頼朝に謀反の疑いをかけられ、伊豆修禅寺に流された様子が記述されています。
〈建久4年(1193年)5月28日〉曽我兄弟仇討ち
〈同8月2日〉範頼は頼朝へ忠誠を誓う起請文を送る。しかし源範頼と源姓を名乗ったことを過分とされ狼狽。
〈同8月10日〉範頼の家人、当麻太郎が頼朝の寝所に忍び込み捕らえられる。
〈同8月17日〉範頼、伊豆修善寺に配流される。
〈同8月18日〉範頼の家臣が不穏な動きを見せたとして討伐される。
〈同8月20日〉曽我十郎の兄弟である原小次郎が処刑された。範頼の縁座という。
その後、誅殺されたとも、生き延びていたとも言われています。
範頼幽閉・殺害の地、信功院
源範頼が幽閉されたのは修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院と言われています。信功院は現在はなく、信功院跡となる庚申塔があるのみです。説明板には次のように書かれています。
「修善寺の八塔司の一つである信功院のあった所です。
建久四(一一九三)年、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したといわれています。
信功院は後に庚申堂となり、今は文政元(一八一八)年建立の庚申塔が一基残っています。
平成二十七年十月 伊豆市教育委員会」
範頼の幽閉・誅殺は源頼朝の誤解だったのでしょうか? 並み居る御家人たちとの権力闘争に敗れたのかもしれませんし、本当に実験を握ろうとしたのかもしれません。日本の中世を切り開いた源頼朝ほどの人物が単純に誤解から、大功ある範頼を追放したとは思えません。色々と考えながら歩く修善寺はより逞しい魅力ある場所となりました。