極楽寺坂切通し
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極楽寺坂切通し
(ごくらくじざかきりどおし)
新田義貞の鎌倉攻めを跳ね返した峻険な切通し
1333年(元弘3年)新田義貞の倒幕軍は極楽寺坂から攻め寄せます。大仏貞直率いる幕府軍はこの峻険な切通しを利用した固い守りで義貞軍を跳ね返しました。
エリア長谷・腰越
住 所鎌倉市極楽寺
アクセス江ノ電「極楽寺駅」下車、徒歩3分
極楽寺から由比ガ浜方面方面へと切通した鎌倉七口のひとつ。新田義貞鎌倉攻めにおける激戦が歴史に名高い切通しです。
『吾妻鏡』に極楽寺の名は見られず、稲村から茅ケ崎方面へと進む記述ばかりですから、鎌倉時代の始めから中期までは存在ぜす後期に開かれたと考えられます。
極楽寺の僧、忍性が開いたとされます。忍性は1267年から1303年まで極楽寺にいましたから、この間に開かれたのでしょう。
開かれてからは鎌倉の西南端に位置する主要な道路として活躍しましたが、最も有名なのは1333年(元弘3年)新田義貞の鎌倉攻めです。藤沢まで兵を進めた義貞は軍を3つに分け、巨福呂坂、化粧坂、極楽寺坂の3方から鎌倉を攻めます。
大館宗氏、江田行義を大将として極楽寺坂から攻め込んだ新田軍は大仏貞直率いる幕府軍の固い守りを破ることができず、大将の大館宗氏は戦死します。当時は峻険な切通しであったようで守りを固める幕府軍の守備は強力でした。義貞は軍をまとめ直し、伝説の稲村ケ崎越えの奇襲作戦を敢行。鎌倉を攻め落としました。
極楽寺坂及びその周辺は見所豊富です。長谷側の坂下には星の井寺、御霊神社、力餅屋、坂の途中に成就院、坂を上ると極楽寺があります。