芥川龍之介
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芥川龍之介
(あくたがわりゅうのすけ 1892-1927)
新婚の一時を鎌倉にて太平に過ごした
芥川龍之介は1892年(明治25年)東京に生まれます。一学年に数人しか合格しない東京帝国大学文科大学英文学科に入学し1916年(大正5年)次席にて卒業。横須賀にある海軍機関学校英語教官に着任すると同時に鎌倉は由比ケ浜に下宿します。
1917年(大正6年)横須賀へ移りますが、塚本文子と結婚した1918年(大正7年)、再び鎌倉に戻ります。場所は由比ケ浜にある元八幡のすぐ隣です。小山別荘内にあり、8畳2間の他に3部屋、風呂と台所があり庭には池がありました。
1919年(大正8年)大阪毎日新聞社社員として創作に専念することとなり、寄稿のみで出社の義務はないものの、東京田端の実家に戻ります。
絶筆となった『或阿呆の一生』にこんな一文があります。
「彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がったかげに。ー 彼等の家は東京から汽車でもたっぷり一時間かかる或海岸の町にあったから。」
『身のまはり』にはさらに詳しく様子が描かれています。
「小さい長火鉢を買つたにもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗の具合などは値段よりも上等に出来上つている。僕は当時鎌倉の辻という処に住んでいた。借家は或実業家の別荘の中に建つていたから、芭蕉が軒を遮つたり、広い池が見渡せたり、存外居心地のよい住居だつた。が、八畳二間、六畳一間、四畳半二間、それに湯殿や台所があつても、家賃は十八円を越えたことはなかつた。僕らはかういふ四畳半の一間にこの小さい長火鉢を据え、太平無事に暮らしていた。あの借家も今では震災のために跡かたちもなくなつていることであろう。」