頼朝、征夷大将軍となる

 1192年(建久3年)3月に後白河法皇が崩御、7月になり頼朝は征夷大将軍に任ぜられます。後白河法皇は最後まで頼朝に征夷大将軍を与えることを拒んだといわれますが、奥州平定後の頼朝にとっては固執すべき官職ではなかったという解釈もあり様々な歴史的見解が示されてきました。この時点における頼朝の官職は権大納言右近衛大将(右大将)。右大将は公卿ですから頼朝の家政機関は公式機関に準ずるものとして認められていました。しかし右大将は在京の官職であり中央近衛軍司令官という性格が武威の都「鎌倉」の長としてはそぐわない面がありました。そこで、797年(延暦16年)に坂上田村麻呂が東北全土を平定した際の征夷大将軍という官職が候補としてあがります。全国の武士を統括する最高軍事司令官であり、令外的に独自の権限を持つ性格はこの時期の頼朝にとり適格なものでした。

 室町、江戸になると絶対的な権力の象徴となる征夷大将軍ですが、まだこの頃はそれほどの象徴的重みはなかったようです。頼朝の後を継いだ頼家はまず左近衛中将、左衛門督となり征夷大将軍に任じられたのは家督を継いだ3年後です。実朝に関しては最初から征夷大将軍となっています。要するに、征夷大将軍を継ぐことは厳格化されていなかったように見受けられます。

 8月、征夷大将軍任官後初の政所始が行われます。これまで頼朝の花押であった下文が政所の花押となったことに挙兵以来の忠臣千葉常胤は大いに抗議、頼朝の花押の入ったものを求めたため頼朝は望み通りにしたそうです。この頃、身を捨てて頼朝の挙兵に尽力した弧三浦義明を弔うために三浦の矢部郷(現 横須賀市大矢部/小矢部)に一堂を建立することを決めています(現 満昌寺)。頼朝というと高貴な雰囲気と冷徹な理性、政治家としての面が強調されますが知る程にそのイメージは変化していきます。源氏の跡取りとして順調な出世街道を歩み、その後父義朝と共に初陣した平治の乱に敗れ逃亡の末捕らえられ父は殺され自らも配流。配流先の伊豆蛭ヶ小島で20年という歳月を過ごした頼朝、挙兵直後石橋山の戦いで死の危機に瀕したあとは風林火山の如く並みいる強敵を平らげた頼朝に筆者が持つイメージはこうです。鹿の角を素手で持って押さえつける武人であり、苦労を知り義理と人情に深い大親分、そして並外れた知性と創造力をあわせ持った希代の鬼武者。

 10年に渡り続いた内乱の世も頼朝によってようやく落ち着きを取り戻したこの年に後の第3代将軍実朝が生まれ内乱の戦没者を弔う大寺院永福寺が西御門に創建されます。頼朝は幾度も永福寺造営地を訪れ、畠山重忠、下河辺政義らの有力御家人たちが自ら梁や棟を引き各々が力士数十人分もの仕事をこなしたと伝わります。この頃には鎌倉の落ち着きを感じるようなエピソードが多く残されています。92歳になる父義朝の乳母が余命の最後にと頼朝を尋ね、頼朝は大いに憐憫の情を寄せたそうです。夏には「海辺に涼風あり、頼朝は小坪の辺りに出て御家人たちとともに釣りや弓に終日遊び黄昏に帰った」、「頼朝が一条高能を連れて勝長寿院、永福寺などに参り多古江河(現 逗子市田越川)の辺りを気ままに散策した」、「三浦三崎の別荘を訪れ、小笠懸の勝負が催された」といった調子です。現在も鎌倉、逗子に残る杉本寺、岩殿寺にも頼朝や政子が幾度が参拝しています。かつて杉本寺から岩殿寺を繋ぐ山中の古道があり頼朝もこの道を通ったのでしょう。残念ながら宅地化により現在その古道はなく、岩殿寺の山頂付近に面影を遺すのみです。

 1193年(建久4年)5月には曾我兄弟の仇討ちで有名な富士の巻狩が催されます。射手として集まったものは数えきれなかったと言われる大規模なものでした。曾我兄弟の勇敢に感じ入った頼朝は兄弟の菩提を弔うようにと曾我庄の年貢を免除し、討入りの際にこれを恐れて逃亡した常陸国久慈の御家人についてはその所領を没収しています。この巻狩において頼朝の嫡男頼家が鹿を仕留め、喜んだ頼朝は政子に使者を送りますが政子は「武将の子なら当然のこと。軽々しく使者をだすべきではない」と冷めた対応をして使者は面目を失ったといわれています。

 後に政治力を発揮し尼将軍と呼ばれた北条政子とはいえやはり女性、武威の根本であり「鎌倉」を成立せしめた戦場での命のやりとりという修羅場には赴きません。源氏の血筋は源頼義、義家、義朝、為朝など「騎弓は神の如し」といわれる傑物たちのカリスマ的技能・武威こそが繁栄の礎であることを体感として理解していなかったのでしょう。頼朝もまた素手で鹿を押さえつける豪腕の持ち主であったと言われています。「御曹司は若干12歳で鹿を射止められた。さすが源氏のお血筋は違う」と言われることはとても重要なことなのです。これがわからない政子による日々の養育が頼家や実朝を武家の棟梁の器から外してしまったのではないかと訝りたくなります。

 この年の8月、頼朝の弟として鎌倉においても重きをなしていた範頼に謀反の嫌疑がかかり伊豆の修禅寺に幽閉されます。木曾義仲・平氏追討に義経とともに活躍した頼朝遠征軍の大将です。義経を際立たせる後世の物語からその能力を低く記述されることの多い範頼ですが、実際は頼朝軍の主力武士団を見事に統率し鎌倉への報告も隙なくこなす優れた指揮官であり知行した三河国の差配においても手腕を発揮していました。曾我兄弟の仇討ちの際頼朝が討たれたという誤報が届き、これを聞き嘆く政子に「後にはそれがしが控えております」と言ったことから嫌疑がかかったと『吾妻鏡』は伝えています。幽閉後の範頼の足跡は定かではなく誅殺されたと言われています。軽卒な言動を伴った義経よりむしろ範頼の方が「鎌倉」創造において必要であった、頼朝及びその直系への権威の集中という流れの中で犠牲となった悲劇の人なのではないかと思えてなりません。

頼朝再度上洛

 1195年(建久6年)2月14日、頼朝は東大寺供養のため政子や子らを伴って2度目の上洛を行います。東大寺の再建についてはかねてから大檀那として物品貨幣を奉納するだけでなく、布施や僧供料米等の勧請を命じ大江広元、三善康信に奉行を命じるなど助成を惜しみませんでした。2月14日に鎌倉を出発した頼朝は3月4日六波羅の亭に入ります。上洛にあたっては新たに馬千頭、米一万石、黄金千両、上絹千疋という奉納を行っています。3月12日に行われた供養においては降雨と地震があり風神雷神のしるしであるとされ、和田義盛、梶原景時らが数万騎を持って警備に当たるなか頼朝が参堂します。東大寺供養という国家的事業に唯一無二の役割を果たし、鎌倉の大軍を率いその武威を改めて示したこの上洛は頼朝が新しい「鎌倉」という天下を創造したことを人々に印象づけたことでしょう。頼朝は天王寺に参詣したり、頼朝の力によって内覧・摂政となり執政の座についた九条兼実と面会し鎌倉の理世について話し合うなど3か月を過ごし、6月25日には鎌倉に向けて出発します。

 上洛にあたっては前回同様畠山重忠が先陣を務めました。重忠は頼朝御家人の中でも随一の人物として歴史書に描かれています。怪力を誇る武勇の士であり廉直な人柄で人望の厚い名将でした。一ノ谷の戦いの鵯越では愛馬を気遣い背負って崖を駆け下りたとか、永福寺の造営では3mの巨石を一人で動かすなどの逸話が遺されています。上洛中に明恵上人に会うため重忠が栂尾山の近くまで来ると、煙塵が舞い上がり門弟らが火事かと騒いでいると上人はこう言いました。「名のある勇士がいま、こちらに近づいている。その気が現れているのだ」。参上した重忠をみた門弟たちは皆納得したと伝えられています。

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