後白河法皇

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後白河法皇

(ごしらかわ ほうおう 1127 ~1192)

激動の時代を生きた日本第一の大天狗

 鳥羽天皇の第4皇子。第77代天皇。天皇在位1155年~1158年。天皇譲位後34年に渡り院政を行う。法皇の院政期は保元・平治の乱、平氏政権、治承・寿永の乱、鎌倉幕府成立という激動の時代であった。親王時代は50日間昼夜に謡い明かしたという今様好きであり、『愚管抄』によれば父の鳥羽上皇は「即位の器量にあらず」とみなしたと伝わる。1155年(久寿2年)近衛天皇が崩御すると自身の子である守仁親王が即位することとなっていたが、実父が存命とあり中継ぎとして即位。1158年(保元3年)には予定どおり守仁親王(二条天皇)に即位するが、後白河院政派と二条親政派の親子対立、後白河院政派の信西と藤原信頼の2つの対立は平治の乱を引き起こす。藤原信頼についた頼朝の父義朝は信西を討ち取るものの、二条親政派の平清盛に巻き返された。乱後しばらくは後白河院政と二条天皇新政が両立し権力の趨勢は右往左往する。1165年(永万元年)に六条天皇が即位すると後白河院政派が台頭、二条親政派の摂関家や平清盛を味方につけ朝廷を掌握した。以後は安定した院政の下、有力者となった平清盛と協調し高倉天皇と清盛の娘徳子の婚姻、日宋貿易などを進めた。平氏の権勢は徐々に高まり法皇の力は弱まっていく。それでも院政を続けたい法皇と法皇を引退させ高倉天皇親政としたい平氏の戦いは激しくなり、1179年(治承3年)清盛は治承3年の政変を起こし後白河法皇を幽閉して院政を停止。娘の徳子が生んだ安徳天皇を即位させ権力の絶頂に登った。平氏の専横に対して1180年以仁王が挙兵し平氏打倒を軸とする全国的な内乱、治承・寿永の乱となる。以仁王が倒れた後、源頼朝、木曽義仲、武田信義の3つの源氏勢力と協調し平氏勢力を一掃する。頼朝が乱の勝利者となり新たに「鎌倉」という武家政権を歩み始めると頼朝の弟義経を取り込むなど抵抗をみせるが阻止できず、朝廷に有利な公武関係の成立に尽力し1192年(建久3年)に死去した。

『天子摂関御影』の後白河法皇。

『天子摂関御影』の後白河法皇。

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