〈番外編〉晩秋の箱根旧街道
目 次
〈番外編〉晩秋の箱根旧街道
源頼朝ゆかりの史跡も多く点在する箱根。晩秋の11月末、江戸時代に整備された旧街道を歩いて、湯本から元箱根に向かいました。
箱根旧街道を歩くとき、多くの方は元箱根からの下りルートをいかれると思います。案内記事などもそちらが多いようですから、ここでは登りルートをご案内します。見所多い晩秋の箱根旧街道です。
全行程箱根湯本駅〜元箱根
距離約10km
徒歩所要時間(目安)4時間半
行程概要実際の時間経過です。取材等により通常より大幅に時間がかかっています。
◎〈8:00〉箱根湯本駅
〜〈8:35〉早雲寺:800m/15分
〜〈9:00〉正眼寺:450m/5分
〜〈9:45〉箱根觀音:600m/9分
〜〈10:25〉須雲川インター交差点:1.5km/23分
〜〈10:35〉鎖雲寺:550m/8分
〜〈10:43〉須雲川自然探勝歩道 入口:150m/2分 ※手前に公衆トイレあり
〜〈11:35〉割石坂・発電所前バス停:700m/20分
〜〈12:20〉畑宿:1km/30分
〜〈13:40〉甘酒茶屋:3km/70分
〜〈15:00〉元箱根:1.8km/45分
(注)距離はグーグルマップと現地標識をあわせて概算したもの。徒歩所要時間は実際に歩いた時間から取材時間を省いて概算したもの。〈 〉内の時刻は実際に歩いた際の時刻ですから、取材・撮影・食事・休憩などの時間が含まれます。
源頼朝の二所詣。「鎌倉」とも縁の深い箱根
鎌倉と並び首都圏を代表する観光地である箱根は、古来より東海道の要衝、天下の険として知られ鎌倉とも縁の深い土地です。平成26年の観光客数を比べてみると箱根2,190万人、鎌倉2,196万人(平成26年)とほぼ同じでした。
箱根の山々は信仰の対象であり、平安時代より走湯山(走湯権現・伊豆山権現)と箱根山(箱根権現)を参拝する二所詣が行われていました。源頼朝はこれに三嶋大社を加えた二所詣を慣例とし、以後武士を中心に広まることとなります。
二所詣の道順は、始め伊豆山から三島・箱根へと向かっていました。しかし、1190年(建久元年)正月20日、伊豆山に向かう途中にある石橋山の合戦場跡に立ち寄った頼朝は、石橋山合戦に散った家臣、佐奈田与一の墓を見て哀悼の涙を流します。これを参拝にふさわしくないという先達がおり、以後、箱根・三島を経て伊豆山を詣で鎌倉に帰る道順となりました(吾妻鏡)。
湯坂路(鎌倉古道)と江戸初期に整備された箱根旧街道
源頼朝や実朝が二所詣に使用した道は湯坂路と呼ばれ、箱根旧街道とは異なります。湯坂路は、湯本から湯坂山、浅間山などを通り芦之湯へ下ったら精進ヶ池を経て箱根権現に参拝、芦ノ湖畔の芦川宿から箱根峠を越えて三島に至る道です。現在でも湯坂路(鎌倉古道)として残されています。
『鎌倉タイム』ですから本来は湯坂路から先にお伝えすべきところながら、他の仕事との兼ね合いで旧街道が先になってしまいました。
本記事で取り上げている箱根旧街道は、三嶋宿から箱根峠を越え小田原宿まで下る八里(約32km)の道程。「箱根の山は天下の険」と歌われた東海道第一の難所でした。このうち、三嶋宿から箱根峠を越え、箱根の関所までの区間を西坂ともいいます。
江戸幕府により1618年(元和4年)湯坂路を廃して新たな箱根峠越えの道として造られ、あわせて芦ノ湖畔に箱根宿、関所が置かれました。箱根八里越えの難所として江戸時代を通じて利用されました。
江戸幕府は1680年(延宝8年)、二間幅(約3.6m)で石を敷きつめる整備を行い、石畳の両側には、松や杉の木が植えられました。現在、山中地区から笹原地区まで約2kmの区間、往時に近い形で石畳が整備され、国指定の史跡となっています。
紅葉に瘉される、晩秋の箱根旧街道
箱根湯本駅〜早雲寺
〈箱根湯本駅〉
この取材を行った年、鎌倉では紅葉の色づきが早めでした。晩秋らしい少し枯れたくらいの景色を狙って11月末、箱根旧街道へと向かいました。
午前8時、箱根湯本駅に到着、改札を出て国道1号線を横断し早川に掛かるあじさいばしに近づくと向こう岸に程よく紅葉した木をみつけ、頃合いはよさそうだと安心します。
橋を渡ると箱根旧街道と記された最初の道標があり、あわせて旧街道の概要、絵図と所要時間が書かれた素晴らしい出来の「箱根旧街道案内図」が設置されています。手で描いた絵図・案内図は、パソコンでつくったものとはレベルが違います。
本当は自分も絵筆を持って描きたいところですが、技量がない。だからカメラという複写機やパソコンを使います。ちょっと寂しいこんな気分もまた旅の味わいです。
ただし、後で気がついたのですがこの絵図、鎖雲寺先から入る須雲川自然探勝歩道が描かれていないようです。恐らく絵図ができた後にその道が再現されたのでしょう。
〈早雲公園・早雲寺林〉
すぐに早川とわかれ左、小さな山を登ると神奈川県天然記念物に指定されている早雲寺林がある早雲公園に出ます。早雲寺林はかつての豊かな早川沿いの景色が残る貴重な場所です。いまでは無惨に開発されてしまいましたが、昔はスダジイやタブノキの林が広がっていたそうです。
最初の目的地、早雲寺はこの小山を降りたところにあります。ちなみに早雲公園以降、案内板による距離と徒歩所要時間は以下のとおりです。畑宿(約5.5km、2時間)、甘酒茶屋(約8km、3時間20分)、元箱根(約10km、4時間)。
〈早雲寺〉
爽やかな朝の早雲公園で朝食をとってから出発、5分ほどで早雲寺につきます。臨済宗大徳寺派の早雲寺は、室町時代中後期・戦国初期の大名、北条早雲(1432?-1519)の墓所です。1519年(永正16年)に享年64〜88歳で死去した早雲の墓所として、早雲から家督を譲られた氏綱が1521年(大永元年)に創建しました。
早雲は、室町幕府の政所執事から、伊豆・相模・三浦・武蔵の一部を支配する大名へとのし上がった人物であり、早雲に始まる後北条氏は、名城小田原城を本拠とし早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代に渡り勢力を拡大。その版図は伊豆、相模、武蔵、下総、上総(半分)、上野に加えて、下野、駿河、甲斐、常陸の一部にも及び、240万石に達する大大名でした。そのため、北条氏の菩提寺であった早雲寺は関東屈指の禅刹として繁栄しました。
1590年(天正18年)小田原征伐と題して北条氏を攻撃した豊富秀吉は、4月5日、箱根山を越えて早雲寺に入り本陣とし、6月になり石垣山一夜城が完成すると早雲寺を焼き払い本陣を移しました。焼き払われた早雲寺は約80年の後、子孫である狭山北条氏当主氏治により再建されました。
早雲寺の紅葉は本堂周辺、特に背後が美しく、本堂越しに眺めるもよし、北条五代の墓に参ってから近づいて眺めるのもよしです。
早雲寺〜正眼寺
〈正眼寺〉
早雲寺の門を出るとすぐ県道です。おそらくかつてはこの辺り一帯が早雲寺だったのでしょう。大大名北条氏の菩提寺ですからそれも頷けます。県道を上っていくと5分程で曽我兄弟ゆかりの正眼寺があります。
正眼寺は鎌倉時代の地蔵信仰から生まれたという古刹です。仇討で知られる曽我兄弟の生まれ変わりという地蔵菩薩像が2体あり、胎内からは1256年(康元元年)の銘が見つかっています。
鎌倉幕府成立直後の1193年(建久4年)、源頼朝配下で起こった曽我兄弟の仇討は、鍵屋の辻の決闘(1634年)、忠臣蔵(1702年)と並び日本三大仇討の一つに数えられています。地蔵菩薩像は基本非公開ですが、秋の彼岸に公開されます。正眼寺の紅葉は地蔵菩薩像が安置された曽我堂の脇に色づく銀杏が見所です。
正眼寺〜箱根観音
正眼寺を出て再び県道を上っていくと10分足らずで県道からわかれ、右に下る道に入ります。道標はあるのですが、正面を向いていませんのでご注意ください。この分岐から箱根觀音まで5分程度です。県道離れるとすぐに趣ある石畳が始まり、255m続きます。この石畳は1680年(延宝8年)江戸幕府により整備された石畳の面影を残すものとして国指定史跡となっています。
それまで舗装道路の上を、醜い自動車と一緒に歩いていました方、石畳が始まるのと同時にそれらから離れ、森の中を歩く雰囲気にほっとします。途中旅館の渡り廊下と猿橋が重なるところがあり、とても綺麗です。森を抜けると箱根觀音(福寿院)があり、本堂からみえる湯坂山の景観は見事です。
箱根觀音〜須雲川インター交差点〜鎖雲寺
再び県道に戻り、7〜8分歩き駒沢橋を越えたあたり、県道周囲の紅葉がきれいです。また随所に展望が開け、晩秋の山々をみることができます。県道732号(旧東海道)をいくつもの温泉宿をみながら歩いていきます。
湯本・塔ノ沢温泉は箱根二十一湯の中でも最も古く、736年(天平8年)に遡ります。江戸時代中期の『湯もとの記』には以下のように記されているそうです(箱根湯本観光協会HP)。
「当時この辺りで疱瘡が蔓延したため、加賀白山信仰の創始者である泰澄の弟子浄定坊が遣わされます。浄定坊はお祓いにより病気を治め、738年(天平10年)湯本に白山権現を勧請して十一面観音を刻み、修法を行ないました。すると湯本の山が裂けて霊泉が湧出し、それに浴した人々はことごとく疱瘡が治った。」
〈葛原坂〉
湯本1200年超の歴史に思いを馳せたら、また歩き始めます。10時頃「奥の茶屋」バス停、10時5分に「葛原」バス停を過ぎ、一町程の葛原坂を登っていくと10時25分、須雲川インター交差点に着きます。さらに10分程歩くと右手に鎖雲寺(さうんじ)の小さな滝と石段がみえます。
〈鎖雲寺〉
鎖雲寺は浄瑠璃の時代物として有名な『箱根霊験躄仇討』(はこねれいげんいざりのあだうち)の主人公であり、その話の元となった実話の主人公、勝五郎と初花の墓所です。参拝するために必須の物語については、境内掲示板を引用させていただきます。(改行、句読点を追加しました)
「“此らあたりは山家ゆえ
紅葉のあるのに雪が降る”
ご存じ歌舞伎狂言に名高い浄瑠璃の一句で初花の夫勝五郎を恋うる名台詞であります。
夫の仇敵を追って、箱根山中に差しかかりましたが、不図したことから、勝五郎の病は募るばかりに、大望を抱く身の勝五郎の病状を案じた初花は夜毎に夫の眠るのを待って、向山の滝で身を浄め箱根権現へ夫の病気平癒と仇討成就の願をかけ、ひまさえあれば、山中に深く分け入り、天来の薬餌で名高い自然薯を掘り集め夫に薦めるのでした。
初花の一念天に通じ、慶長四年八月、遂に仇敵の佐藤兄弟にめぐり合い、見事に本懐を遂げさせたと言う。貞女初花の伝説は四百年後の今日でも、何か私達の心にひしひしと深い感銘を覚えさせるものがあります。
二人の眠る墓は、この寺の境内の墓地に誰が建てたか、哀惜の比翼塚として葬られております。
どうか皆様もご供養のつもりで、香華を手向けて戴きたいと存じます。
昭和四十八年三月吉日
はつ花そば店主 小宮吉晴 建立」
〈はつ花そば〉
この説明板を建立した小宮吉晴氏は箱根名物「はつ花そば」の創始者です。同店は箱根最初のそば店といわれ、終戦後に入手困難となった小麦粉の代用として自然薯を使った蕎麦を開発し、有名店となりました。とろろそば発祥の店ともいわれています。
現在では、本店(神奈川県足柄下郡箱根町湯本635)、新館(神奈川県足柄下郡箱根町湯本474)という立派な構えのお店となっています。
いまでも国産の蕎麦粉と自然薯、地卵だけ(水は使いません)で打つはつ花のそばは箱根名物として一度は味わっておきたい逸品です。定番のせいろそば(1,200円)は、蕎麦、自然薯山かけ、薬味がつき、中年男性の筆者はこれ一つで充分お腹が満たされる量です。
鎖雲寺には目につくような紅葉はみあたらず、本堂や初花堂に参拝し、はつ花そばに寄りたい気持ちを抑え、次の目的地へと向かいました。同店に寄れって美味しい蕎麦の香りがすれば、どうしても酒が入りますから、取材が億劫になりそうな気がしたからです。
鎖雲寺〜須雲川自然探勝歩道
〈須雲川自然探勝歩道〉
鎖雲寺を後にして県道を少し歩くとすぐ須雲川自然探勝歩道に入ります。この歩道は、元箱根と奥湯本を結び、江戸時代初期からの旧街道を守りつつ整備された自然豊かな道。入口の標識にはここから畑宿まで約1.7kmとあります。まずは、森の中を須雲川沿いに点在する紅葉をみながら歩きます。
〈須雲川沿いの紅葉〉
途中、川沿いに巨石と紅葉の景観を発見し、川に降ります。須雲川と紅葉、巨石をみながらしばらく静かに景色を満喫します。
引き続き15分程川沿いを歩いて再び県道に出ると道の反対側にすぐ「須雲川自然探勝歩道」の看板があり、舗装道路は横切るだけで、すぐに石畳の美しい道、割石坂(わりいしざか)があります。
〈割石坂〉
割石坂は、曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう際、刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真二つに切り割ったところと伝わります。ここから先は、森の中、随所に石畳がありつついくつもの坂を越える箱根旧街道らしい道が続きます。
短い割石坂を登ると「これより江戸時代の石畳」との道標があります。これは、この後もいくつかあり、石畳は江戸時代のものを補修して使い続けているものと平成に整備された場所などがありますから、このような細やかな案内板はありがたいです。
〈箱根路のうつりかわり〉
このような題名の案内板が道沿いに設置されています。各時代の箱根越えルートが文章と絵図により端的に書かれており、他の道も歩いてみたいという気持ちにさせてくれます。以下、引用します。
「箱根路は、古来より東西交通の難所であり、文化の流通に大きな障壁となってきました。この壁を通過する交通路は、地形の制約をうけながら常に箱根山を対象に設けられてきました。
箱根路のうつりかわりは、日本の歴史にも深いつながりをもち、各時代のうつり変わりと共に箱根越えの路も変わってきました。
◎碓氷道
箱根で、もっとも古い峠路
◎足柄道
奈良、平安時代に利用された路
◎湯坂道
鎌倉、室町時代に開かれた路
◎旧東海道
江戸時代に開かれた路
◎国道(一号線)
現在の東海道」
割石坂〜畑宿
「割石坂、富士の巻狩、仇討に向かう曽我五郎」と何となく思い返しながら10分程歩くとまた県道に出ます。時刻は11時54分、そろそろ空腹感がありますが、一気に元箱根までいって一杯やりながら食べようと決め、歩を進めます。
2、3分歩くと再び舗装道路から山中の旧道らしい路に入り、すぐに瑞々しい大沢川と色づいた雑木の美しい景色の場所があります。紅や黄の鮮やかな紅葉というよりも、全体が秋らしい色づきとなり、川にはもみじが流れています。簡素な橋を渡ったところで腰を下ろしてしばらく景色を眺めます。
〈大澤坂〉
大沢川を過ぎると登り三町余りの大澤坂。最も往時の石畳がよく残っているといわれ、滑らかに丸み、苔むした石畳は雰囲気抜群です。幕末の下田奉行小笠原長保の『甲申旅日記』には「大澤坂は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたりつつじ盛んにて、趣殊によし」と書かれているそうです。つつじ盛んという言葉に期待しましたが、紅葉はあまりありません。
〈畑宿〉
12時15分頃、県道に出て少し歩くと右手の先の方に大きな柿の木と紅葉をみつけます。県道沿いに静かな街並みを歩いていると「本陣跡」というバス停をみつけ、この辺りに江戸時代の本陣があったのだと知ります。バス停の名称というのは、土地の記憶をしっかり残していることがあり、旅先のみならず日常でも随所にちょっとした発見をさせてくれる、ありがたい存在です。
本陣跡というバス停にすっかりひっぱられてしまいましたが、この辺りは畑宿です。江戸時代は宿場間の休憩所的な場所だったそうですが、本陣跡があるくらいですから、きっと重要な場所だったのでしょう。現在は寄木細工が盛んで、中心部には畑宿寄木会館があり、多くの作品の展示・販売、実演などが行われています。入場は無料です。
割石坂〜畑宿
〈畑宿一里塚〉
畑宿の街を進み、「畑宿」バス停を越えてすぐ左に折れるとすぐに「箱根旧街道 畑宿一里塚」があります。江戸初期につくられ、旅人の大切な目安となり、一息つく木陰にもなった一里塚。そもそも「一里塚」という名前がいい。「いちりづか」と何回か呟いてみます。ここにある一里塚は往時の様子を伝えてくれる貴重なものです。箱根町による案内板がわかりやすいため、長文ながら引用します。これを知っておくと名を呟くのがより楽しくなります。
「箱根旧街道 畑宿一里塚
江戸時代のはじめ、徳川幕府は街道や宿場を整備し、交通基盤を整えました。さらに、距離を明確にするため、街道の一里(約4km)ごとに一里塚を置きました。東海道の一里塚は、後に二代将軍となる徳川秀忠の命により、慶長九年(一六〇四年)2月につくり始められ、全てが完成したのは慶長十七年(一六一二年)であったと考えられています。
畑宿の一里塚は、江戸日本橋から23里目に当たるもので、明治時代以降、一部が削られてしまうなど江戸時代往時の姿は失われてしまいましたが、発掘調査と文献調査の結果を基に復元整備を行い、箱根町の中では唯一往時の様子を現代に伝えるものです。
山の傾斜にあるこの塚は、周囲を整地した後、直系が約5間(9m)の円形に石積を築き、小石を積み上げ、表層に土を盛って、頂上に標識樹として、畑宿から見て右側の塚にはモミが、左側にはケヤキが植えられていました。
一里塚は、旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。
平成二十四年三月
箱根町
教育委員会生涯学習課」
この一里塚のすぐ側から森の中に入っていく石畳の街道が始まります。その入口あたりに紅葉があり、一里塚の側に立ってみると抜けていく路の奥行きと紅葉が実に見事です。しばらく一里塚を堪能し12時30分、歩き始めました。
〈橿木坂〉
登り二町の西海子坂を6分程で越えると県道に戻り、また県道から脇道に入り、今度は登り五町の橿木坂(かしのきざか)です。ここは傾斜がきつくなかなかつらいです。『東海道名所日記』には道中一番の難所とあり、あるおとこは以下のように詠んだと立て札があります。「橿の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの 涙こぼる」
橿木坂を越えたら見晴橋、元箱根まであと3km。すでに午後1時になってしまいました。8時過ぎに箱根湯本駅を出ましたから、普通にすたすたと歩けば正午頃には元箱根についているはずですが、すぐいろんなものに見惚れてしまい、こんな時間になってしまいました。楽しみにしている甘酒茶屋まではあと1.3kmです。
〈箱根の雲助〉
見晴橋を過ぎたあたりにちょっとした平場があり腰掛が2、3設置され、また面白い案内板があります。これまた興味深いのでしつこいようですが、この度も引用させていただきます。
「雲助とよばれた人たち
箱根の雲助というと知らない人はいません。ところが雲助とよばれた人たちは、実は、この小田原の問屋場で働く人足たちだったのです。しかし雲助というとなにか悪者のように考えますが、それは一部の人で、問屋場では、人足を登録させ仕事を割当てていましたので、悪さをした人などはいなかったといいます。
日本交通史論という資料によると、雲助になるのは次の三つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなか難しく誰でもすぐなれるという職業ではなかったようです。
一、力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上ぜひ必要です。)
二、荷物の荷造りがすぐれていること。(荷物を見ると、だれが造ったものかわかり、また箱根で一度荷造りした荷物は、京都まで決してこわれなかったそうです。)
三、歌をうたうのが上手でないと、一流の雲助とは言われなかったそうです。
こうした人足のほかに、馬をひく「馬子」、駕籠をかつぐ「駕籠かき」たちの雲助が、元箱根や湯本など箱根の各地に住み通行や温泉遊覧のたすけをしていました。
環境省・神奈川県」
ちょっとだけ腰掛に座り、そうか、雲助になるのは大変なことで良い職人さんたちだったのだなと、これまでの乱暴なイメージを反省します。引き続きもみじに飾られた石畳をいき、山根橋を渡り13時15分頃、樹々の間から左側の景色が開け、遠くに相模湾がみえます。さらに甘酒橋があり、一間半程の簡素な木造の橋が点在します。
この後、猿滑坂という面白みのある名の坂があるのですが、昔は県道の横断歩道橋がかかる辺りにあったそうです。また県道に戻り、10分弱歩き目指す甘酒茶屋に至る最後の坂、追込坂にかかります。名前は厳しいのですが、緩やかな路です。
〈親鸞上人と笈ノ平〉
追込坂の入り口付近に面白い立て札をみつけました。「親鸞上人と笈ノ平(おいのたいら)」と題されたものです。さすが東海道の要衝箱根、様々な人が行き交い、この峠を人生の岐路としたことを実感させてくれます。以下、本文を引用します。
「東国の教化を終えての帰路、四人の弟子と上人が険しい箱根路を登ってこの地に来たとき、上人は弟子の性信房に向かい、「師弟打ちつれて上洛した後は、たれが東国の門徒を導くのか心配であるから、御房がこれから立ち戻って教化してもらいたい」と頼み、師弟の悲しい別れをした場所と伝えられています。」
親鸞の東国教化は越後配流の後です。1214年(建保2年)に赦免され、信濃国善光寺から上野国を経て常陸国に入り草庵を結んだのが1216年(建保4年)、以後、20年間の東国布教を行ない、60歳を過ぎて帰京しましたから、箱根を越えたのは1235年(文暦元年)頃でしょうか。
その頃といえば、承久の乱で鎌倉幕府が朝廷を叩きのめしてから15年、鎌倉幕府第3代執権北条泰時の時代、花開こうとする北条執権政治が着々と地盤を固めていました。源頼朝による「鎌倉」創成から執権政治確立に至るこの時期は、長い日本史の中でも最も世の中が変わっていた時代といえるかもしれません。
それにしても、随所にある立て札のありがたいこと。様々な想像を膨らませてくれます。箱根旧街道の立て札や案内板は、周囲の景色を阻害しないような色や形状になっており、これもありがたい配慮です。親鸞上人旧跡の後はすぐ甘酒茶屋、楽しみにしていた甘酒がのめます。
甘酒茶屋〜元箱根
〈甘酒茶屋〉
13時40分、甘酒茶屋の茅葺屋根と紅葉した門前の大きな木が見えてきました。江戸初期創業、十三代続く甘酒茶屋は年中無休、日の出から日の入りまで営業という明快なお店です。
江戸時代の民家はこうだっただろうと思える店内の雰囲気といい、砂糖を加えずに米麹と米だけでつくる甘酒(400円)といい、完璧です。
力餅(500円)も、みそおでん(450円)、ところ天(500円)も美味しいですが、晩秋の今日ですから、やっぱり甘酒を注文。旅の疲れが癒やされます。ちなみに夏なら冷たい甘酒をおすすめします。昔の日本では冷たい甘酒も定番だったそうです。
甘酒茶屋についても丁寧な説明板がありますので、以下、引用します。
「江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行ないました。東海道はその中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本〜箱根関所間、通称「東坂」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通1日十里(一里は4キロメートル)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。
道中には「甘酒」をふるまう茶屋が設けられるようになり、文政年間(1818〜1829)には「甘酒茶屋」と記録があり、箱根地域には9箇所設けられていたようです。この地には4軒あり、付近の追込坂上、猿滑坂下にもありました。
しかし、明治十三年(1880)、国道1号の開通などから街道をゆく人々が減少して、現在ではこの地に1軒が残るのみになっています。
神奈川県、箱根町教育委員会」
久しぶりの美味しい甘酒を味わいつつ30分程ゆっくりしてから、出発します。甘酒茶屋の裏手を進み一度県道を横断し、14時15分頃、最後の登りに入ります。元箱根まで後40分ですから、15時頃には到着する予定です。
〈権現坂〉
30分程登り続けると14時40分頃から下り始めます。権現坂です。少し下り元箱根まで残り500mの道標の辺りで樹々の間から芦ノ湖がみえます。現代では筆者のように箱根湯本まで電車を利用し、そこから歩くわけですが、江戸時代の旅人は小田原からここまで登り続けてくるわけですから、芦ノ湖をみたときの感慨は格別なものがあったでしょう。権現坂を下ったら、県道にかかる歩道橋を渡り立派な杉並木を抜けたら元箱根に到着します。
〈杉並木〉
〈元箱根〉
〈芦ノ湖〉
何度も何度もきた箱根も、初めて旧街道を歩いてみると違った感触を得ることができました。晩秋をじっくり味わうことができました。最後は紅葉する秋の芦ノ湖をみて箱根の一日を終えました。