鹿島神宮
鹿島神宮は茨城県鹿嶋市にあり、高天原の守護神ともいえる日本最強の武神、武甕槌神(タケミカツチノカミ)のいらっしゃる処です。常陸国一之宮、三大神宮(延喜式による)、勅祭社、中臣氏(藤原氏)の出身地、四方拝の一社、東国三社、日高見国(高天原)の中心、鹿島神流・鹿島新當流の聖地といった特長を持つ、かえがたき存在の尊い神社です。
公式HPでは、創建は神武天皇元年(紀元前660年)と控えめに言っておられますが、それは、現在のように建物のある神社としての創建であり、この場所が神のおわす信仰の場所として始まったのは、もっともっと昔、きっと縄文時代です。新井白石が述べているように、高天原は鹿島神宮のあたりにあったのですから。
鹿島神宮の境内は、東西に参道がまっすぐに通り、参道に対して横向き(北を向いて)に本殿が位置しています。天照大神が太陽神であるように、縄文以来の日本人の信仰の基本は自然信仰、中でも太陽信仰です。鹿島神宮の東西に通る参道は、東の日本のさらに東の鹿島において、昇り、沈む太陽を拝む場所だったのでしょう。日本が始まった場所と言いたくなる凄みが鹿島神宮にはあります。
目 次
武甕槌神(タケミカツチノカミ)
伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)が火の神・軻遇突智(カクヅチ)を産んだ時、伊邪那美(イザナミ)が傷つき、それが原因で死んでしまいます。夫の伊邪那岐(イザナギ)は怒って、十拳剣(トツカノツルギ)・天之尾羽張(アメノオハバリ)で軻遇突智(カクヅチ)を切ります。その時、天之尾羽張(アメノオハバリ)についた血が岩に飛び散ります。その血からうまれたのが、武甕槌神(タケミカツチノカミ)です。
東日本を治める日高見国の中心、高天原をおさめる天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟である素戔嗚命(スサノオノミコト)は、度重なる乱暴な振る舞いから、高天原を追放され、未開の地であった西日本の出雲の地に降り立ちます。子孫たちはその地を開拓し、6世孫の大国主命(オオクニヌシノミコト)の時代には、葦原中国(アシハラナカツクニ)となり大きな勢力となりました。
葦原中国が良くない勢力となりつつあることを憂いた皇統の祖である高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)は、葦原中国を日高見国に吸収するべきだと考え、様々な者を差し向けるがうまくいきませんでした。そこで、香取神宮にいらっしゃる経津主神(フツヌシノカミ)と鹿島神宮にいらっしゃる武甕槌神を差し向けます。いわゆる「国譲り」です。
日本書紀では、経津主神、武甕槌神が葦原中国を平定したことが淡々と書かれています。古事記には経津主神は登場せず、鹿島神である武甕槌神が天鳥船神とともに派遣されます。武甕槌神は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、経津主神は香取神宮(千葉県香取市)、天鳥船神は息栖神社(茨城県息栖市)にいらっしゃいます。
日本の神話は事実を基に書かれた歴史であり、「神は人なり」(新井白石)ですから、日高見国の軍勢が首都である高天原(鹿島)から船で出発した、ということでしょう。縄文海進により、古代の鹿島辺りは現在よりも内陸まで海が入り込んでいましたから、船の行き来はいまより自在だったはずです。
武甕槌神は葦原中国を治める大国主神に、国を譲るよう迫ります。大国主神は「自分だけでは決められない。息子たちも同意すれば良い」と答えます。兄の事代主神は同意しますが、弟で力自慢の建御名方神(タケミナカタノカミ)は、武甕槌神に戦いを挑みます。
建御名方神が武甕槌神の手を掴むと、その手は剣となって建御名方神に襲いかかります。さらに武甕槌神は建御名方神の手を取って、いとも簡単に握りつぶし投げ飛ばしました。恐れをなした建御名方神は長野県の諏訪まで逃げます。武甕槌神は追いかけ、殺そうとします。
建御名方神は「どうか殺さないで下さい。今後はこの地から出ません。父の大国主神の言うことにも、兄の事代主神の言うことにも背きません。葦原中国も高天原に献上します。」といって命乞いをしました。二人の子供が認めたことを大国主神に伝えると、大国主神は壮大な宮殿を建ててもらうことを条件に葦原中国を高天原に献上することを承諾しました。その宮殿が出雲大社です。
武甕槌神は神武天皇の東征でも登場します。東征中の神武天皇と皇軍は熊野で毒気に倒れます。天照大神は武甕槌神を遣わそうとしますが、武甕槌神は「自分がいかずとも、国(葦原中国)を平定した剣を降ろせば良い」といって、霊剣「布都御魂」を降ろします。すると神武天皇と皇軍は覚醒しました。
三大神宮
日本で重要な神社を三つ挙げてくれと言われたら、伊勢神宮、出雲大社まですんなり出て、あと一つはどこだろうと考える方が多いのではないでしょうか。自分なら、①伊勢神宮、②鹿島神宮、③香取神宮の順に三つを挙げます。
927年(延長5年)にまとめられた全国の神社一覧である延喜式神名帳に神宮と記載されたのは、上記に挙げた伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮だけです。三大神宮といえば、伊勢神宮は別格としてもいくつかの選び方があるようですが、日本の歴史を縄文から辿り想像してみると、延喜式の選び方には納得せざるを得ません。
勅祭社
鹿島神宮は15社ある勅祭社の一社でもあります。勅祭社とは、天皇が例祭などに定期的に勅使を遣わされる神社のことです。15社とは次の神社です。
賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社、熱田神宮、出雲大社、氷川神社、鹿島神宮、香取神宮、橿原神宮、近江神宮、平安神宮、明治神宮、靖国神社、宇佐神宮、香椎宮
中臣氏(藤原氏)の氏神、中臣氏の出身地
中臣鎌足の出身地であり、藤原鎌足を名乗ってからも氏神は鹿島神宮にいらっしゃる武甕槌神であり、中臣氏(藤原氏)の始祖とされている天児屋命(アメノコヤネノミコト)は武甕槌神の子です。子の藤原不比等は768年(神護景雲2年)、鹿島神宮を奈良の地に勧請し、春日大社を創建しました。春日大社は鹿島神宮の分社なのです。日本が東から西へと中心を移していく流れが象徴されているようです。
四方拝
毎年1月1日(元日)の早朝、歳旦祭に先だって、宮中・神嘉殿の南庭で天皇が天地四方の神祇を拝し年災消滅、五穀豊穣を祈る儀式「四方拝」が行われます。その時、鹿島神宮も香取神宮とともに拝されます。
東国三社
比較的近隣に位置する、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)、息栖神社(茨城県息栖市)は、東国三社と言われます。「江戸時代には「下三宮参り」と称して、関東以北の人々が伊勢神宮参拝後にこれら三社を巡拝する習慣があった」というのが一般的な説明ですが、先程述べたように、それよりももっと深い意味のある三社です。
鹿島神流・鹿島新當流
武甕槌神の子、天児屋命から十代嫡流に国摩大鹿島命という方がいて、その子の国摩真人(クニナズマノマヒト)は鹿島神宮の高天原に祭壇を築き、武甕槌神の剣、韴霊剣(フツノミタマノツルギ)の法則、「神妙剣の位」を授かりました。これは「鹿島の太刀」と言われ、鹿島神流として宗家である吉川家に伝えられています。
1489年(延徳元年)、吉川家に後に剣聖と称される塚原卜伝(つかはら・ぼくでん、1489-1571)が生まれます。次男だった卜伝は、塚原城主土佐守安幹の養子となり、実父吉川覚賢と祖父呼常から鹿島中古流を、養父土佐守安幹から香取神道流を学び、更に鹿島氏四家老の一人、松本備前守政信に師事して剣を学びました。
武甕槌神から続く鹿島神流と、経津主神から続く香取神宮の香取神道流を修めるという、剣の道のスーパーエリートです。その後、諸国修行を経て鹿島神宮に参籠すること一千日「心新たにして事に当たれ」との神託を受けて、鹿島中古流の極意である「一の太刀」を開眼したと言われています。この神託を由来として、卜伝の流法は「鹿島新當流」と言われます。
卜伝の弟子である加藤信俊の孫による『卜伝遺訓抄』は、卜伝の強さを次のように述べています。
「十七歳にして洛陽清水寺に於て、真剣の仕合をして利を得しより、五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らず、木刀等の打合、惣じて数百度に及ぶといへども、切疵、突疵を一ヶ所も被らず。矢疵を被る事六ヶ所の外、一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。」
このように、鹿島神宮は剣術・兵法の聖地です。日本は永きに渡って武を重んじてきました。武甕槌神、経津主神はもとより、神武天皇もまた皇軍を率いて戦い、天武天皇は「この国の民は武を修め、いつでも戦えるように準備しておかなくてはならない」旨の勅を下しています。モンゴル、清(中国)、ロシア、アメリカという世界の大国とも戦い、この国を侵そうとする者に対しては、権謀術数、戦略を含む武力・兵法を駆使して倒してきましたが、残念ながらアメリカだけには負けました。
今のように、相手が核兵器で脅してきているのに、非核三原則があるから核を共有すらしないなどと腑抜けたことを言っているのはおかしなことであり、天武天皇の下された勅に反します。敵が攻撃しようとするなら、その起りを捉えて先に敵を倒すことができるように用意しておかなくてはいけません。
源頼朝と鹿島神
鎌倉時代には、源頼朝が鹿島神宮を深く崇敬し、神領の寄進をたびたび行っています。皇統をひく源頼朝は鹿島神宮の凄さ、日高見国に始まる日本の歴史を知っていたのでしょう。鎌倉に幕府を構えた理由の一つでもあったのではないかと思っています。
神武天皇は東征において、長脛彦の軍勢に大和で敗れた後、紀伊半島を迂回し東から大和を攻めて勝利します。これは、自分たちの出身地である東を背にすることで、その助勢を得たのではないでしょうか。源頼朝も、木曽義仲のようにまず京に攻め上るのではなく、常陸の佐竹氏、奥州藤原氏を制して東の力を背にしてから、京に上りました。鹿島神(武甕槌神)を味方につけたかったのだろうと想像しています。
源頼朝は、鹿島神宮と鹿島一郡に地盤を築いていた鹿島氏を丁重に扱いました。その辺りは、鹿嶋市の「鹿嶋デジタル博物館」HPより引用させて頂きます(https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50043.html)。
「源頼朝の台頭と鹿島氏
治承4年(1180年)8月、平清盛を討つため挙兵した源頼朝は、東国武士団の帰属をはかりました。常陸国では、源氏である佐竹隆義・秀義父子が清盛に与して頼朝に叛旗を翻し、鹿島一郡に地盤を築いていた鹿島氏はこれに従いましたが、佐竹氏を降伏させた頼朝は、これを罰することはありませんでした。
鹿島政幹は帰順の意思を表明するため、自らの子である宗幹・弘幹兄弟に一族郎党一千騎余をつけて鎌倉へと送りました。頼朝は、鎌倉を根拠地に定め、侍所を置いて武士団の結束を図りました。翌年(1181年)には清盛が死に、平家はその主柱を失いました。
鎌倉では源義経と源範頼が参陣し、平家追討の軍団が編成され、宗幹と弘幹は義経の軍に配属されました。二人は「屋島の戦い」で平教経(たいらののりつね)の軍と激突し、戦死しました。
頼朝は領地を鹿島神宮に寄進し、鹿島政幹を鹿島社惣追捕使(そうついぶし)に任命して、神領内の治安と仕置きの執行に当たらせました。これは、頼朝の鹿島神宮への崇敬心の顕れと、武家勢力を神宮の中へ注入すること、更に鹿島氏の源氏に対する忠誠心を嘉したということでしょう。
鹿島氏はその後、鹿島政幹8世の孫の幹重が鹿島惣大行事(そうだいぎょうじ)に任命されて、惣追捕使は大中臣氏(木滝惣追家)の職となりました。鹿島氏初代の成幹・政幹と二代に渡って築かれた鹿島一郡の地盤は、代々引き継がれ、天正19年(1591年)二十代鹿島清秀の時に鹿島城の落城を迎えるまで、その所領でした。
鹿島城落城後も鹿島氏は鹿島惣大行事家として存続し、時代の波に揉まれて変遷し、絶家の危機に遭遇しながらも、約700年を経た明治維新を鹿島神領支配役の一家として迎えました。」
境内
境内は約70ヘクタールの広さがあります。社殿はいずれも江戸時代初期の1619年(元和5年)、第2代将軍徳川秀忠の命による造営です。奥宮は1605年(慶長10年)に徳川家康が関ヶ原戦勝の御礼として建てたもので、子の秀忠が現在の社殿を建てた時に奥宮として現在の地に移されました。日本三大楼門の一つに数えられる立派な楼門は、1634年(寛永11年)に初代水戸藩主、徳川頼房の命によって造営されました。
境内の入口にある大鳥居は高さ10.2m、幅14.6mもの大きさです。元々は茨城県笠間市稲田産の御影石による石鳥居で、国産花崗岩の鳥居としては日本一の大きさでした。しかし、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災の影響で倒壊してしまいました。すぐに復興事業が始まり、鹿島神宮をよりどころとする多くの人が参加して2014年(平成26年)6月に再建されました。再建にあたっては、境内にあった杉の大木が用いられました。
鹿園には神鹿(しんろく)である日本鹿が飼育されています。鹿は武甕槌神の使いとして尊ばれ、鹿島神宮の分社として春日大社が768年(神護景雲2年)に創建されますが、創建の前年、神護景雲元年(767年)に白い神鹿の背に分霊を乗せ多くの鹿を引き連れて出発し、1年かけて奈良まで行きました。奈良といえば街中に鹿がいて有名ですが、あの鹿は鹿島神宮の鹿が発祥なのです。
境内の東には御手洗池(みたらしいけ)があります。湧水が溜められたとても澄んだ池です。昔はこの辺りまで舟で進み、この池で身を清め(潔斎)てから参拝したそうです。東側には要石もあります。武甕槌神というと、なまずを押さえつけているイメージがあります。それはこの要石に由来しています。
かつて、地震は地中のオオナマズが起こすと考えられていて、それを押さえつけているのが、武甕槌神がおわす鹿島神宮の要石だというわけです。直径30cm、高さ7cmほどの意志が地面から顔をだしているだけなので、そんな大きな石には見えないのですが、水戸藩主徳川光圀が7日7晩要石の周りを掘らせたが、穴は翌朝には元に戻ってしまい根元には届かなかったと言われています。
70町歩に及ぶ鹿島神宮の境内には一千種の植物が繁茂しています。南限北限の植物が同生した植物学上貴重なため、県の天然記念物に指定されています。太陽を背にして東から鹿島神宮へと入り、社殿に参拝した後は、参道をまっすぐ西にすすんで鹿島神宮の樹叢(じゅそう)を歩きましょう。奥宮、御手洗をめぐったら、御手洗付近の茶屋や腰掛けで一休みして、再び参道を東へと戻ります。