杉原千畝

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杉原千畝

(すぎはら ちうね 1900-1986)

晩年を鎌倉で過ごした

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国の方針に従い、10,000人のユダヤ系難民を救った外交官

大東亜戦争中、外交官としてリトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害を受けて、ポーランドを始め欧州各地から逃れてきたユダヤ人系を主とする難民たちに、国家の方針に基づき、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ10,000人にのぼる避難民を救ったことで知られます。晩年を鎌倉市西鎌倉に住み、墓所は鎌倉霊園です。

昭和15年(1940年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などは、ビザを取得しようと各国の領事館・大使館に向かいます。しかし、リトアニアを占領していたソ連は、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を要求したため、ユダヤ系難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館にビザを求めて殺到しました。ここで、杉原さんは、「ナチス・ドイツとは同盟国だが、日本は人種平等であるからユダヤ人迫害は認めない」という日本の方針のとおり、10,000人ものユダヤ系難民にビザを発給しました。

よく、「外務省の訓令に反してビザを発給した」といわれますが、これは嘘であると『ユダヤ人に学ぶ日本の品格』(PHP研究所)という書籍で拝見し、その記述に確証を持ちました。大東亜戦争の日本は悪者でなくてはいけない、という反日左翼は質が悪いです。歴史や事実を勝手に変えます。気をつけないといけません。日本はこれより先、昭和13年(1938年)に「無差別でユダヤ人を受け入れる」ということを閣議決定しているのですから。

イスラエルでは当然のごとく恩人として手厚く扱われ、昭和60年(1985年)、イスラエル政府より多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」が贈られました。

晩年は鎌倉へ

敗戦後の昭和22年(1947年)に帰国した杉原一家は藤沢市鵠沼松が岡に住みます。敬愛する外交官・政治家で内閣総理大臣を務めた広田弘毅(1878-1948)のかつて住んでいた場所であったそうです。

その後、外務省から退職勧告があり、職を転々とし、海外生活を経て昭和52年(1977年)に鎌倉市西鎌倉に転居、晩年を過ごし、昭和61年(1986年)に86歳で亡くなりました。墓所は鎌倉霊園です。帰国後に外務省から冷遇され、などともよくいわれ、退職勧告もそれと紐付けられていますが違います。帰国後に叙勲を受けております。退職勧告は敗戦によって、外交官が余ったからでしょう。

平成28年(2016年)6月30日、鎌倉市議会で、総務常任委員会発議の「人道的行為を尽くされた杉原千畝さんを顕彰することに関する決議」が全会一致で可決されます。平成28年(2016年)7月13日、遺族が鎌倉市役所を訪れ「人道的行為を尽くされた杉原千畝さんを顕彰する事に関する決議」を受け取りました。

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