山木兼隆館跡

目 次

山木兼隆館跡

やまきかねたかやかたあと

源頼朝、挙兵の地

治承4年(1180年)8月17日、この地で源頼朝が平家討伐の兵を挙げました

山木兼隆館跡。現在は個人宅となっており、住人に許可を得て入らせて頂きました。敷地内に篤志家が建てた「兼隆館跡」の石碑がありました。山木兼隆館跡。現在は個人宅となっており、住人に許可を得て入らせて頂きました。敷地内に篤志家が建てた「兼隆館跡」の石碑がありました。

蛭ヶ小島周辺の主な関連史跡。他にもあると思いますので、取材でき次第追加予定です。

蛭ヶ小島周辺の主な関連史跡。他にもあると思いますので、取材でき次第追加予定です。

エリア静岡県
住 所静岡県伊豆の国市韮山山木820-5

平家追討はここから始まった〜現在は個人宅

山木兼隆屋敷跡は、源頼朝配流の地とされている蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園)から約1.5km、歩いて20分程のところにあります。小高い山の中腹にあり、韮山の平野を望むことができます。高台になったあたり一帯が屋敷であったといわれており、現在はそのほとんどが一般住宅となっていて、史跡として整備されているわけではありません。

フェンスに案内板があります。「左にいくと、この先の高台一帯が平兼隆館の跡です。」とあります。

フェンスに案内板があります。「左にいくと、この先の高台一帯が平兼隆館の跡です。」とあります。

フェンスに案内板があります。「左にいくと、この先の高台一帯が平兼隆館の跡です。」とあります。

フェンスに案内板があります。「左にいくと、この先の高台一帯が平兼隆館の跡です。」とあります。

山木兼隆館跡に向かいます。

山木兼隆館跡に向かいます。

山木兼隆館跡は正面の森の辺りだと言われています。現在は個人宅です。

山木兼隆館跡は正面の森の辺りだと言われています。現在は個人宅です。

篤志家が建てた小さな石碑があるのですが、現在は個人宅内であり遠目に眺めることになります。(※今回は許可を頂いてお話を伺い、撮影させて頂きました。)
石碑のある平場に立つと、山が連なっていて韮山運動公園の方角に桃色の新しいマンションのような建物が見えます。地元の方の話では、頼朝勢はその辺りから山沿いを進み、山木兼隆屋敷を襲撃したそうです。

山木兼隆館跡からみた景色。頼朝勢はこの山を左から回って襲撃したそうです。

山木兼隆館跡からみた景色。頼朝勢はこの山を左から回って襲撃したそうです。

山木兼隆館跡。現在は個人宅となっており、住人に許可を得て入らせて頂きました。敷地内に篤志家が建てた「兼隆館跡」の石碑がありました。

山木兼隆館跡。現在は個人宅となっており、住人に許可を得て入らせて頂きました。敷地内に篤志家が建てた「兼隆館跡」の石碑がありました。

治承4年(1180年)8月17日、源頼朝挙兵

治承4年(1180年)8月17日、快晴。源頼朝は配流先の伊豆蛭ヶ小島において、平家討伐の兵を挙げ、判官・山木兼隆を討ち取ります。この日は三嶋大社の神事が行われており、山木兼隆の家中の多くは三嶋大社の神事をみた後、黄瀬川の宿で遊んでいたことから、この好機を掴んでの挙兵でした。

頼朝勢は子の刻(午後11時〜午前1時)には山木兼隆の家臣で勇士として知られた堤信遠の館を襲撃、佐々木経高が前庭へと進み矢を放ちます。これが歴史を変えた平氏討伐における源氏最初の一矢となりました。堤信遠を討ち取った頼朝勢は山木兼隆の屋敷に討ち入り、佐々木盛綱と加藤景廉が山木兼隆の首をとります。兵が戻り、頼朝が縁に並んだで山木兼隆主従の首を御覧になりました。すでに夜は明け、朝になっていました。

山木兼隆の屋敷跡の石碑があるお宅は、江川家の家臣の家柄とのことで、現在のお住まいも明治元年の建築とのことでした。丘を下れば5分ほどで重要文化財となっている江川家の屋敷があり、江川家は明治維新まで江戸時代を通じて幕府の代官としてこのあたり一帯の天領を治めたわけですから、それほど遠い話でもありません。

近くの江川家も頼朝と同じ清和源氏の名家

蛭ヶ小島(蛭ヶ島公園)から山木兼隆屋敷跡に行く途中、江川家住宅を通ります。江川家は江戸幕府の世襲代官として知られ、現在でも400年前に建てられた江戸期の建物が残る重要な史跡です。江戸期の代官屋敷として有名ですが、江川家は、清和天皇の第6皇子源経基(?-961?)を始祖とする源頼朝と同じ清和源氏の一族です。

伊豆の国市、重要文化財、江川邸。

伊豆の国市、重要文化財、江川邸。

源経基の子には源満仲(912-997)がおり、その次男が江川家を含む大和源氏の祖、源頼親(966?-1057?)、三男は頼朝を生んだ河内源氏の祖、源頼信(968-1048)です。源頼親の子孫が宇野氏を名乗り平安末期に伊豆に移住し、宇野治長が源頼朝の挙兵を助けたことから明治維新まで38代続いた江川家の礎が築かれたそうです。

一方、頼信の嫡男は、頼朝が最も尊敬したといわれる源頼義(988-1075)です。その後、頼義→義家→義親→為義→義朝→頼朝となります。

吾妻鏡の「頼朝挙兵」

※参考文献:吾妻鏡webページ(http://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html)、『現代語訳 吾妻鏡』(吉川弘文館 刊)

治承4年(1180年)8月17日、快晴。三嶋大社の神事が行われた日。

三島大社神事の奉幣を務めた安達盛長が帰参。未の刻(午後1時〜午後3時)に佐々木定綱、経高、盛綱、高綱の四兄弟が到着した。定綱と経高は疲れた馬に乗り、盛綱と高綱は徒歩だった。源頼朝は様子をみて感涙し「汝らが遅れたために今朝の合戦をすることができなかった。この遺恨は大きい」と仰った。洪水のためにやむなく遅れたことを定綱らが謝罪した。

戌の刻(午後7時〜午後9時)、安達盛長に仕える童が釜殿(台所)において雑色の男を生け捕りにした。この男は最近北条館の下女を嫁としており、夜な夜な通っていた。今夜は、武士たちが集まっており、それをみて気がついてしまうだろうと考え、頼朝の命により捕らえたものだった。

頼朝は「明日を待ってはいけない。早く山木に向かい雌雄を決せよ。この戦いによって生涯の吉凶を決めるのだ」と仰った。また、合戦の際にはまず火を放つように命じた。特にその煙を御覧になりたかったためという。武士たちはすでに奮い立っていた。

北条時政が頼朝に申し上げた。「今日は三島社の神事があり、道は人であふれているでしょう。牛鍬大路を経由すると往来の人々に咎められるでしょうから、蛭嶋通りを行くのがよいでしょう」。

頼朝は答えた「思う所はその通りだ。しかし、大事を始めるのに裏道を使うことはできない。それに蛭嶋通りでは騎馬で行くことができない。だから大道を使いなさい」。また、住吉昌長を軍勢に付き従わせた。これは船上で祈禱をさせるためである。佐々木盛綱と加藤景廉は留守を守るように命じられ、頼朝の近くに残った。

その後、頼朝の軍勢は棘木(ばらき、現在の伊豆の国市原木)を北に行き肥田原(現在の函南町肥田)に到着し、北条時政は馬を止めて定綱にいった「兼隆の後見、堤信遠が山木の北におり、優れた勇士である。兼隆と同じく誅しておかなければ後々の煩いとなろう。佐々木兄弟は信遠を襲撃するように。案内をつけよう」。

定綱らは子の刻(午後11時〜午前1時)には、牛鋤大路を東に行き信遠邸宅の近くに集まった。佐々木定綱、佐々木高綱は、案内についた北条時政の雑色、源藤太を連れて信遠邸宅の背後にまわった。佐々木経高は前庭へと進み矢を放った。これが平氏討伐の源氏の最初の一矢となった。

その時、月は明るく光り、(深夜にもかかわらず)昼間と変わらない程であった。信遠も太刀を取り、北東に向かって戦い、信遠、佐々木経高どちらの武勇も際立っていた。経高に矢があたったが、佐々木定綱、佐々木高綱が邸宅の背後から加わり信遠を討ち取った。

北条時政らの手勢は兼隆館前の天満坂辺りまで進み、矢を放った。兼隆の郎従の多くは三島社の神事参詣にでかけて、黄瀬川宿に留まり遊んでおり留守だった。兼隆の館に残ったわずかな手勢は死を恐れず時政らに戦いを挑んだ。この間に定綱ら佐々木兄弟は信遠を討ち取り、時政の軍勢に加わった。

頼朝は、軍勢を送り出した後、館の縁側に出て合戦のことを思っていた。また、火を放った煙を確認させるため、御廐(みうまや)の舎人、江太新平次を木に登らせたが、しばらく煙をみることができなかったため、警護にあたっていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家らを呼び、「すぐに山木に赴き、合戦に加わるように」と命じた。手ずから長刀をとって加藤景廉に与え、山木兼隆の首を討って持ち帰るようよくよく命じた。

そこで三人は馬にも乗らずに蛭嶋通りの堤を走った。佐々木盛綱と加藤景廉は厳命通りその館に討ち入り、山木兼隆の首をとった。兼隆の郎従たちも討ち死にした。屋敷に火を放ちすべて燃えた頃には朝になっていた。帰ってきた武士たちは頼朝の館の庭に集まり、頼朝は縁で山木兼隆主従の首を御覧になった。

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