〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道④〜二日目「佐川〜朽木峠〜梼原」
目 次
〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道④
二日目「佐川〜朽木峠〜梼原」
朽木峠を越え、維新の士ゆかりの梼原へ
文・写真 石塚登喜衛
脱藩の道、本編二日目。難所の朽木峠を越え、雲の上の町といわれる維新の志士ゆかりの梼原(ゆすはら)を目指し、痛み始めた脚をかばいつつひたすら歩きます。朽木峠を越えて葉山町に着いたら、そこから梼原まではバスを利用します。本当は歩きたかったのですが、日程の都合によりかないませんでした。
目 次
まえがき/旅支度
前 日「高知市内史跡巡り」
初 日「坂本龍馬生誕地〜佐川」
二日目「佐川〜梼原」
三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
五日目「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」
年月日平成25年(2013年)10月29日(火)
行 程佐川(午前6時30分)
斗賀野(7時20分)、朽木峠(10時2分)、姫野々(午後12時47分)、葉山町役場(1時50分)〜バス乗車〜梼原(3時)〜梼原町の史跡巡り〜民宿友禅(4時30分)
移動距離約46km(徒歩21km、バス25km)
歩 数35,456歩
グーグル・マップのポイントつき地図は一時的に掲載を見送っています。グーグルから、ポイント数が多すぎると指摘を受けたためです。他の対処法を考えております。少々お待ち下さい。
佐川〜斗賀野
佐川駅
二日目となるこの日は、佐川駅を出発し朽木峠を越えて葉山の集落まで歩き、そこからバスを利用して梼原に向かいました。バスを使うことには抵抗がありましたが、梼原には取材すべき史跡が多く、日程の都合上諦めざるをえませんでした。
初めての峠越えとなる朽木峠、維新の志士ゆかりの梼原町の取材と盛りだくさんの予定を完遂するため、夜明け前にホテルをチェックアウト、高知駅を午前6時5分発のJR特急あしずり51号に乗車し出発点である佐川駅には6時31分に到着します。
「特急あしずり51号」という名前がたまりません。何度でも書きたくなります。子どもの頃あれほどかっこよかった「新幹線こだま号」という響きも、大人になると「特急あしずり51号」にはかないません。
佐川駅の周辺には「米日旅館」、「明清館」などいくつかの旅館があり、次に脱藩の道を辿ることがあれば初日は佐川駅周辺に泊まってみようと思いました。佐川には青山文庫(維新歴史博物館)があり、佐川領主・深尾氏の家塾であり維新の志士を輩出した名教館などの維新関連史跡の他、土佐三代名園の一つを持つ青源寺、植物学者・牧野富太郎博士の生誕地や墓所があり、司牡丹酒造の銘酒もいただけます。
朝もやの佐川駅は爽やかな空気に包まれ、気温は14度です。一路、最初の通過点、斗賀野に向けて出発。佐川駅を背にしてまっすぐ歩き、国道494号線に入ります。ここから先は土佐国最大の難所といわれた朽木峠を越えるまで登り続けます。
佐川駅を後にしてすぐ道路脇に南山社跡の石碑がありました。南山社は1878年(明治11年)に設立された佐川自由民権運動の発祥です。石碑を過ぎるとゆるやかに道が登り始めます。
佐川城跡と土居屋敷跡
10分ちょっと歩くと「佐川城跡と土居屋敷跡」の看板があり、概ね以下のような説明書きがあります。「1573年(天正元年)長宗我部元親の家臣、久武内蔵助が築城したものであり、1600年(慶長5年)山内一豊の土左入国に伴って筆頭家老、深尾重良の居城となったものの幕府の一国一城制により取り壊されますが、土居(館の周囲に整えられた土塁などの防備)屋敷となり、1869年(明治2年)まで12代270年間、佐川藩庁として使用された」。
7時過ぎには東の山から朝日が顔をだし、朝もやの山々と朝日が神々しくみえます。歩き出すとすぐに維新の志士である「片岡利和屋敷跡」があります。片岡利和(那須盛馬)は土佐藩士の次男に生まれ、鳥の巣村那須橘蔵の養子となり深尾領主に仕えます。武市瑞山の土佐勤王党に参加した後、長州藩を頼り1864年(元治元年)田中光顕らと共に脱藩。国事に奔走し、明治維新後は明治天皇の侍従をつとめるなどして男爵を授けられ、貴族院議員も務めました。
斗賀野
7時20分頃、斗賀野に入る少し手前から近い山並みがみえないほどに霧が濃くなってきます。昔話のような幻想的な風景でしたが、15分程歩き斗賀野駅を過ぎる頃には晴れてきました。7時50分頃、斗賀野の中心街を抜けると一気に山が目の前に現れ、道は山に向かって吸い込まれるように伸びています。舗装道路とはいえ何という壮観。
改めて峠越えに気合を入れなおして歩き始めたら、すぐに高知県畜産試験場の牛たちがみえてついつい和んでしまいました。8時13分、全長1070mの斗賀野トンネルに入り、薄暗くて長いトンネルを越えるといきなり清流と山々が迎えてくれました。
トンネルを抜けて5分ほど歩くと少し戻る感じで右に曲がる道があり、これが脱藩の道です。看板は小さく控え目ですので、間違って国道494号をそのまま進まないよう、くれぐれもご注意ください。国道494号は比較的大きな道路ですが、ここからはやっと孤独感が出てきます。山々と美しい棚田の景色もみることができます。
斗賀野〜朽木峠
葉山街道
9時、左手に大きな間口の道がみえ、これが脱藩の道です。こちらも道標が小さいですから注意してください。ここからは脱藩の道 葉山街道と名付けられ、入口には親切な絵図の看板がありますから、後のためにカメラで複写しておくと便利です。
龍馬公園
すぐに龍馬公園、龍馬神社があり小さな社に一礼、この後はどんどん山に入ります。ここから朽木峠の頂上(標高534m)までは3.5kmほどです。9時33分、道が二手に分かれ右手の登っていく道をいきます。その手前にありがたい道標があるのですが、生い茂った雑草によりもう少しで見過ごしてしまいそうです。いまは秋口ですから、これが春夏ともなると隠れてしまわないか不安です。恐らくこの道標がないと迷います。
朽木峠入口
分かれ道を右にいってすぐ、9時35分「至 クチキ峠(旧葉山) 坂本龍馬脱藩の道」の道標があり、今回の旅、初めての土の道が始まります。9時44分、雑木林をぬって進む山道に入り、ここにも「脱藩の道」の道標が置かれています。途中、車が通る砂利道に出たりしますが途切れずに道標があり、その中には立派な石碑があり、よくみると小さく「伊予長浜まで130km」と刻まれていました。
朽木峠上、葉山番所跡
9時53分、本格的な登りの山道が始まります。急な登りを前にずっしりと重い身体をいったん止めて一息だけつきます。左膝に出始めた痛みに不安を覚えますが、それ以上の充実感があります。誰一人いない山中の静寂がもたらす孤独、坂本龍馬が何かに身を賭すために国を捨てて駆け抜けた道。急な登りはありがたいことに10分ほどで終わり、10時2分、朽木峠を登りきり葉山番所跡に到着しました。
葉山番所跡は近年復元されたもののようでしたが、丸太を組んだだけの素朴な造りが旅情を妨げません。周囲には腰掛や展望台、トイレが設置されており、ここで一服します。展望台からの眺望は重なる山々と葉山の集落を見渡す素晴らしいものでした。
朽木峠、下る
10時30分、番所跡に隣接する馬頭観音に参拝し、葉山番所跡を立ちます。ここから下りきった国道197号線までは約5km、山道の下りは12kgの荷物が痛みがきつくなってきた左膝に強い負担を与えますから、落ち着いてゆっくり歩くよう気をつけます。葉山番所跡からは道々に簡潔で読みやすい説明板が設置されていて、とてもよいです。木の簡単な柱に茶色字白抜き文字の板が景観を邪魔しません。
10時36分、かつて朽木峠越えの八合目あたりにあり目安となっていたという欅(けやき)の大木を過ぎると沢があり、この辺りから山道は狭くごろごろとした石とともに足場が悪くなります。
紫折様(しおりさま)
10時57分、紫折様(しおりさま)という立て看板がめにつきました。「道中の無事を祈り、道端の小枝を折って供えた。足が非常に軽くなり、力がつくといわれている」と書かれており、紫折様という名の響きにも惹かれ、書かれた通り小枝を折って供え手を合わせました。
この辺りはとにかくごろごろと石が転がる下りの道が続き、全行程の中でも最も歩き難いです。疲労と左膝の痛みも強くなってきたところ、足でもくじいてしまったら旅が完遂できませんから足元に気を配ります。12kgの荷物を背負って山中の悪路を下ると、改めてトレッキングシューズのありがたみを実感します。
朽木紅葉谷
紅葉の名所だという朽木紅葉谷は残念ながらまだ色づいていませんが、沢だった水の流れは徐々に川となって清流に癒やされます。11時過ぎ、徐々に空が見えて明るくなり峠越えの終わりを感じて安堵。歩を進めるとさらに景色は開け、遠くの山並みが見えてきます。
朽木峠下、東屋
11時15分には道は舗装路となり、11時22分、峠越えをする人々のための休憩所でしょうか、水車のある東屋がみえます。脱藩の道に関する新聞記事が貼られていましたから、かつて葉山から佐川を結ぶ主要道であった朽木峠越えを脱藩の道とあわせて整備したものでしょう。美しい山間の景色、清々しい初秋の空気を感じながらここで休憩させてもらいます。
朽木峠は坂本龍馬脱藩の道であることはもちろん、中岡慎太郎や、陸援隊に参加し後に大日本帝国を動かす主要人物となったといわれる田中光顕なども通ったでしょう。中世においては土佐七雄の一角をなし津野・梼原などを拓いた津野氏、五山文学を生んだ義堂・絶海ゆかりの道でもあります。
朽木峠〜姫野々〜葉山町役場
朽木峠下の東屋から重い腰を上げ、越えてきた山を一度振り返り、緩やかに下る舗装路を長閑な山間の景色とともに歩きます。11時47分、龍馬脱藩の道の道標を頼りに、右の細い道に入り畑や樹々の間を抜ける土の道を進みます。金毘羅様に一礼しながら正午頃、再び舗装路に戻り大変美しい棚田の間を抜けるようにして穏やかな気持で歩きます。この辺りは樺ノ川古庵といい、なんとも趣ある地名です。
樺ノ川五輪塔群
12時18分、樺ノ川五輪塔群を拝見します。津野町教育委員会による説明板が実に興味深いため、主要部分を引用します。
「樺ノ川五輪塔群
(〜中略〜)材質は花崗岩で、最大のものは高さ1・25m、水輪の周囲1・40mで、立派な造りである。五輪塔の下からは火葬にされたと思われる人骨が埋骨された中世の備前焼が発見されており、身分の高い人物の墓所と思われる。古庵という地名からすれば、かつてこのあたりに存在した寺、勝宝寺にゆかりのある者の墓とも考えられている。
五山の高僧として名高い義堂周信(1325〜1388)の「日工集」1378(永和四)年十二月の条に「十月に九一歳で亡くなった父を子供や孫や兄弟たちが荼毘(だび)に付し、西谷の聴松院近くへ送った」という内容の記述があり、この墓所が義堂一族のものであったとも考えられる。また、かつて樺ノ川周辺の所有者であった野見氏(津野氏一族)の墓所とも考えられる。
五輪塔はもとあった場所からはかなり動いている。出土した古備前の壺は町指定文化財として郷土資料館に保存されている。」
しばし立ち止まり、五輪塔群をみつめながら説明板の内容を味わっていると、形のない物に手でさわっているような不思議な感触がありました。龍馬に導かれた過酷な徒歩独行取材が心身を研ぎ澄ましてくれたおかげで、得難いものを得ることができたと独り頷きました。
新荘川
午後12時47分、姫野々の集落、国道197号線に出ます。葉山の街を少し歩いてからバスに乗ろうと、梼原方面に引きずりだした脚を運びます。1時半頃、左手にきれいな川をみて思わず川岸まで降りていきました。この川は新荘川といい、標高1100mの鶴松ヶ森を源とし、津野町から須崎湾へと注ぐ清流です。ニホンカワウソが最後に発見された川であり、かわうそ自然公園などがあるのはそのためです。現在でもその清らかさから天然の鮎などがみられます。
美しい新荘川と背後の山々に目も心も癒やされながら少し佇みます。バス乗車位置に定めた葉山役場前には1時50分に到着しました。折よく2時5分梼原行きがあります。次は3時29分ですから助かりました。定刻より少し遅れて着いたバスに乗り込み、標高400mを超える梼原に向かいます。
梼原
一時間程バスに揺られて3時過ぎ、梼原に到着。高所にある梼原の町に降り立つと空が近くなったような気がします。まずは和田城跡にある維新の門群像に向かいます。日没までになるべく多くの史跡を巡り、残りは明朝夜明けをまって訪れようと計画していました。
維新の門群像
維新の門群像のある和田城跡には天守閣が復元されており、遠目からもみえますから迷うことはないでしょう。天守閣のとなりに群像はあり、伊予国境を向いて立つ八志士の像は躍動感に溢れ、とても迫力があります。右から那須俊平(1807ー1864)、坂本龍馬(1835ー1867)、澤村惣之丞(1843ー1868)、掛橋和泉(1836ー1862)、前田繁馬(1835〜1863)、吉村虎太郎(1837ー1863)、那須信吾(1829ー1863)、中平龍之介(1842ー1864)の像があり、それぞれに雄々しい姿で伊予国境を向いています。
長文ではあるものの、素晴らしい群像に敬意を表して碑文をここに全文を引用します。
「碑文
幕末の風雲急を告げる文久二年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平、信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
それから年を経ること六年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮烈な死を遂げていた。
いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、この群像を建立した。
平成七年十一月十一日 建立
撰文 梼原町維新の門群像建立委員会
会長 梼原町長 中越準一」
梼原町役場、史跡めぐり
梼原の中心街に入り梼原町役場やJA津野山本所が入るモダンな梼原町総合庁舎に立ち寄り、館内を見物します。続いて吉村虎太郎屋敷跡、六志士の墓、村人たちが道行く人々に茶菓子の接待をしたという茅葺きの茶堂、神幸橋などを巡り、4時半頃、この日の宿である民宿友禅に向かいます。友禅は少し葉山方面に戻ったところにあり、途中、那須俊平・信吾の墓にも手を合わせます。
民宿 友禅
明治14年に建てられたという友禅は梼原の歴史と旧家が味わえる宿です。脚を引きずりやっとの思いで宿につき、旧家の床の間のような部屋へと通されたら、保育園に通う娘と同じ重さの荷物をおろし矢も盾もたまらずビールを乞う。ビールとアテに出してくれた野菜の煮物のなんと美味しかったことか。
子供の頃から食が細く「もっとたくさん食べなさい」とか「食べるのが遅い」などといわれてきたはずが、気がついたら女将さんに「そんなにがっつかないでゆっくり食べなさい」と微笑ましく諭されていました。あまりに心身を消耗し必死になって食らいついていたのでしょう。生まれて初めてかけられた言葉でした。
近くは雲の上の温泉があり、綺麗な建物と源泉掛け流しの良質な湯が特長ときき、すぐに向かいます。湯に浸かるとと身体の各所がじんじんと痺れて急激に回復しているのがわかりました。
女将の伊藤辰子さんは御年82歳、一人で宿を切り盛りされ矍鑠とされています。運良く宿泊客は筆者だけでしたので、郷土料理と酒で疲れを癒しつつ梼原古来の話も伺うことができ、これぞ旅の醍醐味とでもいいたい一夜となりました。
翌日は脱藩の道最大の難所、県境の韮ヶ峠を越え愛媛県河辺町にあるふるさとの宿までの約36kmを歩く、最も困難な一日であるため、夜明け前に出発する予定でした。夜の内に支払いを済ませ、朝食兼昼食となるお弁当を女将さんにお願いして眠ります。
桂浜の朝日を拝し龍馬生誕地を出発してからここまで、景観だけでなくほとんどの曲がり角や道標も複写した写真は1000枚に達していました。