〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道④〜二日目「佐川〜朽木峠〜梼原」

目 次

〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道④
二日目「佐川〜朽木峠〜梼原」

朽木峠を越え、維新の士ゆかりの梼原へ

文・写真 石塚登喜衛

脱藩の道、本編二日目。難所の朽木峠を越え、雲の上の町といわれる維新の志士ゆかりの梼原(ゆすはら)を目指し、痛み始めた脚をかばいつつひたすら歩きます。朽木峠を越えて葉山町に着いたら、そこから梼原まではバスを利用します。本当は歩きたかったのですが、日程の都合によりかないませんでした。

目 次

まえがき/旅支度
前 日「高知市内史跡巡り」
初 日「坂本龍馬生誕地〜佐川」
二日目「佐川〜梼原」
三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
五日目「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」

年月日平成25年(2013年)10月29日(火)
行 程佐川(午前6時30分)
斗賀野(7時20分)、朽木峠(10時2分)、姫野々(午後12時47分)、葉山町役場(1時50分)〜バス乗車〜梼原(3時)〜梼原町の史跡巡り〜民宿友禅(4時30分)
移動距離約46km(徒歩21km、バス25km)
歩 数35,456歩

朽木峠の展望台からみた景色。

朽木峠の展望台からみた景色。

グーグル・マップのポイントつき地図は一時的に掲載を見送っています。グーグルから、ポイント数が多すぎると指摘を受けたためです。他の対処法を考えております。少々お待ち下さい。

佐川〜斗賀野

佐川駅

二日目となるこの日は、佐川駅を出発し朽木峠を越えて葉山の集落まで歩き、そこからバスを利用して梼原に向かいました。バスを使うことには抵抗がありましたが、梼原には取材すべき史跡が多く、日程の都合上諦めざるをえませんでした。

初めての峠越えとなる朽木峠、維新の志士ゆかりの梼原町の取材と盛りだくさんの予定を完遂するため、夜明け前にホテルをチェックアウト、高知駅を午前6時5分発のJR特急あしずり51号に乗車し出発点である佐川駅には6時31分に到着します。

「特急あしずり51号」という名前がたまりません。何度でも書きたくなります。子どもの頃あれほどかっこよかった「新幹線こだま号」という響きも、大人になると「特急あしずり51号」にはかないません。

朝靄の佐川駅。6時30分。

朝靄の佐川駅。6時30分。

朝靄の佐川駅。6時30分。

朝靄の佐川駅。6時30分。

佐川駅の時刻表。

佐川駅の時刻表。

佐川駅の周辺には「米日旅館」、「明清館」などいくつかの旅館があり、次に脱藩の道を辿ることがあれば初日は佐川駅周辺に泊まってみようと思いました。佐川には青山文庫(維新歴史博物館)があり、佐川領主・深尾氏の家塾であり維新の志士を輩出した名教館などの維新関連史跡の他、土佐三代名園の一つを持つ青源寺、植物学者・牧野富太郎博士の生誕地や墓所があり、司牡丹酒造の銘酒もいただけます。

佐川駅前の周辺案内図。

佐川駅前の周辺案内図。

佐川駅前の米日旅館。

佐川駅前の米日旅館。

佐川駅前の旅館、明清館。

佐川駅前の旅館、明清館。

朝もやの佐川駅は爽やかな空気に包まれ、気温は14度です。一路、最初の通過点、斗賀野に向けて出発。佐川駅を背にしてまっすぐ歩き、国道494号線に入ります。ここから先は土佐国最大の難所といわれた朽木峠を越えるまで登り続けます。

佐川駅を出たら真っ直ぐ進み、494号に入ります。

佐川駅を出たら真っ直ぐ進み、494号に入ります。

佐川駅を後にしてすぐ道路脇に南山社跡の石碑がありました。南山社は1878年(明治11年)に設立された佐川自由民権運動の発祥です。石碑を過ぎるとゆるやかに道が登り始めます。

南山社跡の石碑。6時44分。

南山社跡の石碑。6時44分。

佐川城跡と土居屋敷跡

10分ちょっと歩くと「佐川城跡と土居屋敷跡」の看板があり、概ね以下のような説明書きがあります。「1573年(天正元年)長宗我部元親の家臣、久武内蔵助が築城したものであり、1600年(慶長5年)山内一豊の土左入国に伴って筆頭家老、深尾重良の居城となったものの幕府の一国一城制により取り壊されますが、土居(館の周囲に整えられた土塁などの防備)屋敷となり、1869年(明治2年)まで12代270年間、佐川藩庁として使用された」。

佐川城跡の案内板。6時52分。

佐川城跡の案内板。6時52分。

7時過ぎには東の山から朝日が顔をだし、朝もやの山々と朝日が神々しくみえます。歩き出すとすぐに維新の志士である「片岡利和屋敷跡」があります。片岡利和(那須盛馬)は土佐藩士の次男に生まれ、鳥の巣村那須橘蔵の養子となり深尾領主に仕えます。武市瑞山の土佐勤王党に参加した後、長州藩を頼り1864年(元治元年)田中光顕らと共に脱藩。国事に奔走し、明治維新後は明治天皇の侍従をつとめるなどして男爵を授けられ、貴族院議員も務めました。

身体はつかれていますが、清々しい空気に癒やされます。

身体はつかれていますが、清々しい空気に癒やされます。

山の向こうから太陽が上ってきました。

山の向こうから太陽が上ってきました。

濃い朝靄です。

濃い朝靄です。

400年の歴史を持つ佐川の蔵元、司牡丹の名が。この近くに倉庫があるようです。社名を付けたのは、龍馬、中岡の後、陸援隊長を務め、明治維新後は宮内大臣を務めた田中光顕伯爵です。

400年の歴史を持つ佐川の蔵元、司牡丹の名が。この近くに倉庫があるようです。社名を付けたのは、龍馬、中岡の後、陸援隊長を務め、明治維新後は宮内大臣を務めた田中光顕伯爵です。

街並みがみえてきました。「国道494 佐川町鳥ノ巣」7時14分。

街並みがみえてきました。「国道494 佐川町鳥ノ巣」7時14分。

片岡利和邸跡の説明板。

片岡利和邸跡の説明板。

片岡利和邸はこの奥あたりにあったのでしょうか。

片岡利和邸はこの奥あたりにあったのでしょうか。

斗賀野

7時20分頃、斗賀野に入る少し手前から近い山並みがみえないほどに霧が濃くなってきます。昔話のような幻想的な風景でしたが、15分程歩き斗賀野駅を過ぎる頃には晴れてきました。7時50分頃、斗賀野の中心街を抜けると一気に山が目の前に現れ、道は山に向かって吸い込まれるように伸びています。舗装道路とはいえ何という壮観。

道中の柿。

道中の柿。

斗賀野付近では、さらに靄が濃くなりました。7時21分。

斗賀野付近では、さらに靄が濃くなりました。7時21分。

斗賀野。

斗賀野。

斗賀野の中心街に入ってきたようです。

斗賀野の中心街に入ってきたようです。

「国道494号 佐川町斗賀野」7時32分。

「国道494号 佐川町斗賀野」7時32分。

左が斗賀野駅の道標。直進はこれからいく四万十市。7時35分。

左が斗賀野駅の道標。直進はこれからいく四万十市。7時35分。

斗賀野駅前を過ぎたところ。

斗賀野駅前を過ぎたところ。

斗賀野の中心街を抜けました。7時41分。

斗賀野の中心街を抜けました。7時41分。

生姜畑が広がっています。

生姜畑が広がっています。

道は山に吸い込まれるようにのび、かなり山が近くなりました。気持ち良い空気です。7時52分。

道は山に吸い込まれるようにのび、かなり山が近くなりました。気持ち良い空気です。7時52分。

改めて峠越えに気合を入れなおして歩き始めたら、すぐに高知県畜産試験場の牛たちがみえてついつい和んでしまいました。8時13分、全長1070mの斗賀野トンネルに入り、薄暗くて長いトンネルを越えるといきなり清流と山々が迎えてくれました。

高知県畜産試験場。7時54分。

高知県畜産試験場。7時54分。

高知県畜産試験場。7時54分。

高知県畜産試験場。7時54分。

喫茶店がありました。様子がみたかったですが、早すぎて開いていません。8時。

喫茶店がありました。様子がみたかったですが、早すぎて開いていません。8時。

バンガローやわんぱく広場、ハングライダーなどレクリエーション施設がありました。

バンガローやわんぱく広場、ハングライダーなどレクリエーション施設がありました。

バンガローやわんぱく広場、ハングライダーなどレクリエーション施設がありました。

バンガローやわんぱく広場、ハングライダーなどレクリエーション施設がありました。

斗賀野トンネル。8時13分。

斗賀野トンネル。8時13分。

斗賀野トンネルを抜けると、きれいな川がありました。さすが四万十川の源流に近いだけあります。

斗賀野トンネルを抜けると、きれいな川がありました。さすが四万十川の源流に近いだけあります。

斗賀野トンネルを抜けると、はっとするような良い景色です。身体がしんどくなってきたところ、気分を治してくれました。

斗賀野トンネルを抜けると、はっとするような良い景色です。身体がしんどくなってきたところ、気分を治してくれました。

トンネルを抜けて5分ほど歩くと少し戻る感じで右に曲がる道があり、これが脱藩の道です。看板は小さく控え目ですので、間違って国道494号をそのまま進まないよう、くれぐれもご注意ください。国道494号は比較的大きな道路ですが、ここからはやっと孤独感が出てきます。山々と美しい棚田の景色もみることができます。

ここを右に曲がります。道標が小さいので要注意。8時35分。

ここを右に曲がります。道標が小さいので要注意。8時35分。

曲がるところに「脱藩の道」とあります。

曲がるところに「脱藩の道」とあります。

斗賀野〜朽木峠

葉山街道

9時、左手に大きな間口の道がみえ、これが脱藩の道です。こちらも道標が小さいですから注意してください。ここからは脱藩の道 葉山街道と名付けられ、入口には親切な絵図の看板がありますから、後のためにカメラで複写しておくと便利です。

右に曲がったら奥へと入っていきます。

右に曲がったら奥へと入っていきます。

山が深くなってきました。8時48分。

山が深くなってきました。8時48分。

山間の景色。

山間の景色。

随所に道標があるのは、とてもありがたいです。

随所に道標があるのは、とてもありがたいです。

ここを左に曲がります。9時57分。

ここを左に曲がります。9時57分。

ここを左に曲がります。9時57分。

ここを左に曲がります。9時57分。

近くには「脱藩の道 葉山街道」の案内図。

近くには「脱藩の道 葉山街道」の案内図。

近くには「脱藩の道 葉山街道」の案内図。

近くには「脱藩の道 葉山街道」の案内図。

龍馬公園

すぐに龍馬公園、龍馬神社があり小さな社に一礼、この後はどんどん山に入ります。ここから朽木峠の頂上(標高534m)までは3.5kmほどです。9時33分、道が二手に分かれ右手の登っていく道をいきます。その手前にありがたい道標があるのですが、生い茂った雑草によりもう少しで見過ごしてしまいそうです。いまは秋口ですから、これが春夏ともなると隠れてしまわないか不安です。恐らくこの道標がないと迷います。

9時少し過ぎ、龍馬公園。

9時少し過ぎ、龍馬公園。

龍馬公園の小さな祠。

龍馬公園の小さな祠。

さらに山の奥へと入っていきます。

さらに山の奥へと入っていきます。

まだ舗装道路です。

まだ舗装道路です。

写真右下、草の陰に道標があります。秋でもこの状態ですから、春夏訪れる方はもっと隠れているかもしれません。

写真右下、草の陰に道標があります。秋でもこの状態ですから、春夏訪れる方はもっと隠れているかもしれません。

朽木峠入口

分かれ道を右にいってすぐ、9時35分「至 クチキ峠(旧葉山) 坂本龍馬脱藩の道」の道標があり、今回の旅、初めての土の道が始まります。9時44分、雑木林をぬって進む山道に入り、ここにも「脱藩の道」の道標が置かれています。途中、車が通る砂利道に出たりしますが途切れずに道標があり、その中には立派な石碑があり、よくみると小さく「伊予長浜まで130km」と刻まれていました。

「脱藩の道 右上道へ」という道標。これがなければかなり不安になります。

「脱藩の道 右上道へ」という道標。これがなければかなり不安になります。

道標に従い右上の小さい道に入り、ちょっと振り返ります。9時34分。

道標に従い右上の小さい道に入り、ちょっと振り返ります。9時34分。

気合を入れなおして登ります。

気合を入れなおして登ります。

道標「至 クチキ峠(旧葉山) 坂本龍馬脱藩の道」。9時35分。

道標「至 クチキ峠(旧葉山) 坂本龍馬脱藩の道」。9時35分。

朽木峠上、葉山番所跡

9時53分、本格的な登りの山道が始まります。急な登りを前にずっしりと重い身体をいったん止めて一息だけつきます。左膝に出始めた痛みに不安を覚えますが、それ以上の充実感があります。誰一人いない山中の静寂がもたらす孤独、坂本龍馬が何かに身を賭すために国を捨てて駆け抜けた道。急な登りはありがたいことに10分ほどで終わり、10時2分、朽木峠を登りきり葉山番所跡に到着しました。

旧道らしい雰囲気になってきました。

旧道らしい雰囲気になってきました。

ここにも「脱藩の道」道標。9時45分。

ここにも「脱藩の道」道標。9時45分。

砂利の車道をまたぎます。

砂利の車道をまたぎます。

大きな道標があり、迷うことはありません。

大きな道標があり、迷うことはありません。

個人の方が建てられたらしい脱藩の道の石碑。

個人の方が建てられたらしい脱藩の道の石碑。

急な登り。12kgの荷物がだんだん膝を痛めつけていたので、アップダウンはこたえます。

急な登り。12kgの荷物がだんだん膝を痛めつけていたので、アップダウンはこたえます。

急な登りでしたが、距離は短く救われました。10時1分。

急な登りでしたが、距離は短く救われました。10時1分。

朽木峠の頂上、番所跡がみえてきました。

朽木峠の頂上、番所跡がみえてきました。

葉山番所跡は近年復元されたもののようでしたが、丸太を組んだだけの素朴な造りが旅情を妨げません。周囲には腰掛や展望台、トイレが設置されており、ここで一服します。展望台からの眺望は重なる山々と葉山の集落を見渡す素晴らしいものでした。

復元された番所跡。「関所 葉山藩」とありました。10時3分到着。腰掛けや展望台がありますので、これからの下りに備えてここで休憩します。ちなみにトイレもあるようです。

復元された番所跡。「関所 葉山藩」とありました。10時3分到着。腰掛けや展望台がありますので、これからの下りに備えてここで休憩します。ちなみにトイレもあるようです。

朽木峠のきれいな説明板。

朽木峠のきれいな説明板。

近くの展望台からみた景色。

近くの展望台からみた景色。

距離が記された道標。国道197号まで5kmとあります。長い下りです。これ以上膝を傷めないよう焦らず行こうといい聞かせます。

距離が記された道標。国道197号まで5kmとあります。長い下りです。これ以上膝を傷めないよう焦らず行こうといい聞かせます。

朽木峠、下る

10時30分、番所跡に隣接する馬頭観音に参拝し、葉山番所跡を立ちます。ここから下りきった国道197号線までは約5km、山道の下りは12kgの荷物が痛みがきつくなってきた左膝に強い負担を与えますから、落ち着いてゆっくり歩くよう気をつけます。葉山番所跡からは道々に簡潔で読みやすい説明板が設置されていて、とてもよいです。木の簡単な柱に茶色字白抜き文字の板が景観を邪魔しません。

重い腰をあげて下り始めます。10時27分。植林の杉が多いです。

重い腰をあげて下り始めます。10時27分。植林の杉が多いです。

すぐに馬頭観音の案内板。

すぐに馬頭観音の案内板。

すぐに馬頭観音がありました。

すぐに馬頭観音がありました。

10時36分、かつて朽木峠越えの八合目あたりにあり目安となっていたという欅(けやき)の大木を過ぎると沢があり、この辺りから山道は狭くごろごろとした石とともに足場が悪くなります。

朽木峠を下ります。

朽木峠を下ります。

朽木峠を下ります。

朽木峠を下ります。

小さな橋があります。

小さな橋があります。

橋の前後から道がかなり悪くなります。ちょうど足を挫きやすい大きさの石がごろごろしています。これも、旧道らしさですから、自然にしておいて欲しいですが、傷んだ身体に堪えます。

橋の前後から道がかなり悪くなります。ちょうど足を挫きやすい大きさの石がごろごろしています。これも、旧道らしさですから、自然にしておいて欲しいですが、傷んだ身体に堪えます。

水舟が再現されていました。

水舟が再現されていました。

立札「水舟 昔日、この谷に大木をくりぬき飲用の水を溜めた舟を置いていたので、ここを水舟というようになった。」10時40分。

立札「水舟 昔日、この谷に大木をくりぬき飲用の水を溜めた舟を置いていたので、ここを水舟というようになった。」10時40分。

一時、道が獣道のようになりました。

一時、道が獣道のようになりました。

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大きな石がみえます。「へんど岩」とありました。

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立札にはこうありました。「欅(けやき)の大木 かつて、朽木峠越えの時、峠の八合目あたりにある大木を目安にして登ったといわれ、一里塚の名残りである」。随所にあるこういう案内は、旅を充実させてくれます。

立札にはこうありました。「欅(けやき)の大木 かつて、朽木峠越えの時、峠の八合目あたりにある大木を目安にして登ったといわれ、一里塚の名残りである」。随所にあるこういう案内は、旅を充実させてくれます。

紫折様(しおりさま)

10時57分、紫折様(しおりさま)という立て看板がめにつきました。「道中の無事を祈り、道端の小枝を折って供えた。足が非常に軽くなり、力がつくといわれている」と書かれており、紫折様という名の響きにも惹かれ、書かれた通り小枝を折って供え手を合わせました。

立札「紫折様(しおりさま) 道中の無事を祈り、道端の小枝を祈って供えた。足が非常に軽くなり、力がつくといわれている。 穴のあいた石は、耳石といわれ耳の病の人が願をかけ治ったお礼にこの石を供えた」。昔の人々にならい、小枝を供えます。10時47分。

立札「紫折様(しおりさま) 道中の無事を祈り、道端の小枝を祈って供えた。足が非常に軽くなり、力がつくといわれている。 穴のあいた石は、耳石といわれ耳の病の人が願をかけ治ったお礼にこの石を供えた」。昔の人々にならい、小枝を供えます。10時47分。

紫折様(しおりさま)。

紫折様(しおりさま)。

紫折様(しおりさま)。

紫折様(しおりさま)。

この辺りはとにかくごろごろと石が転がる下りの道が続き、全行程の中でも最も歩き難いです。疲労と左膝の痛みも強くなってきたところ、足でもくじいてしまったら旅が完遂できませんから足元に気を配ります。12kgの荷物を背負って山中の悪路を下ると、改めてトレッキングシューズのありがたみを実感します。

悪路が続きます。

悪路が続きます。

朽木紅葉谷

紅葉の名所だという朽木紅葉谷は残念ながらまだ色づいていませんが、沢だった水の流れは徐々に川となって清流に癒やされます。11時過ぎ、徐々に空が見えて明るくなり峠越えの終わりを感じて安堵。歩を進めるとさらに景色は開け、遠くの山並みが見えてきます。

舗装道路がみえてきました。10時58分。

舗装道路がみえてきました。10時58分。

脱藩の道、道標。

脱藩の道、道標。

11時、舗装道路に出てきました。

11時、舗装道路に出てきました。

脱藩の道 道標。

脱藩の道 道標。

再び山道に入ります。

再び山道に入ります。

「朽木紅葉谷」と立札があります。

「朽木紅葉谷」と立札があります。

前週に猛威をふるった台風の影響でしょう、水はたっぷりです。

前週に猛威をふるった台風の影響でしょう、水はたっぷりです。

朽木紅葉谷。紅葉には早すぎました。11時5分。

朽木紅葉谷。紅葉には早すぎました。11時5分。

道幅が細く、すぐ崖になっているところもあります。油断は禁物。

道幅が細く、すぐ崖になっているところもあります。油断は禁物。

視界がひらけてきました。

視界がひらけてきました。

水止めの堰があります。11時10分。

水止めの堰があります。11時10分。

人里が垣間見えます。

人里が垣間見えます。

段々畑をみながら下ります。

段々畑をみながら下ります。

越えてきた峠を振り返ります。

越えてきた峠を振り返ります。

朽木峠下、東屋

11時15分には道は舗装路となり、11時22分、峠越えをする人々のための休憩所でしょうか、水車のある東屋がみえます。脱藩の道に関する新聞記事が貼られていましたから、かつて葉山から佐川を結ぶ主要道であった朽木峠越えを脱藩の道とあわせて整備したものでしょう。美しい山間の景色、清々しい初秋の空気を感じながらここで休憩させてもらいます。

舗装道路になりました。11時15分。

舗装道路になりました。11時15分。

すかさず道標があります。

すかさず道標があります。

段々畑がきれいです。

段々畑がきれいです。

高知の清流と柿。

高知の清流と柿。

休憩所がありました。

休憩所がありました。

東屋の腰掛けで少し休憩。

東屋の腰掛けで少し休憩。

あまり休まず、5分休憩で出発します。11時29分。

あまり休まず、5分休憩で出発します。11時29分。

朽木峠は坂本龍馬脱藩の道であることはもちろん、中岡慎太郎や、陸援隊に参加し後に大日本帝国を動かす主要人物となったといわれる田中光顕なども通ったでしょう。中世においては土佐七雄の一角をなし津野・梼原などを拓いた津野氏、五山文学を生んだ義堂・絶海ゆかりの道でもあります。

朽木峠〜姫野々〜葉山町役場

朽木峠下の東屋から重い腰を上げ、越えてきた山を一度振り返り、緩やかに下る舗装路を長閑な山間の景色とともに歩きます。11時47分、龍馬脱藩の道の道標を頼りに、右の細い道に入り畑や樹々の間を抜ける土の道を進みます。金毘羅様に一礼しながら正午頃、再び舗装路に戻り大変美しい棚田の間を抜けるようにして穏やかな気持で歩きます。この辺りは樺ノ川古庵といい、なんとも趣ある地名です。

峠を越えてほっとしながら、きれいな景色の中を歩きます。

峠を越えてほっとしながら、きれいな景色の中を歩きます。

集落を抜けてゆるやかに下ります。11時37分。

集落を抜けてゆるやかに下ります。11時37分。

越えてきた山と美しい山間の集落。

越えてきた山と美しい山間の集落。

集落の中でも、とぎれることなく道標があります。

集落の中でも、とぎれることなく道標があります。

脱藩の道、道標。

脱藩の道、道標。

「こちら、のんびり田舎アート」とあります。

「こちら、のんびり田舎アート」とあります。

個人のお宅なのか、お店か迷いながら、「生ビール」にひかれて覗きましたが、不在のようでした。11時42分。

個人のお宅なのか、お店か迷いながら、「生ビール」にひかれて覗きましたが、不在のようでした。11時42分。

まだ緩やかに下ります。

まだ緩やかに下ります。

まだ緩やかに下ります。

まだ緩やかに下ります。

空は青く、山は緑。人里も自然に溶け込んだ素晴らしい景観です。

空は青く、山は緑。人里も自然に溶け込んだ素晴らしい景観です。

下りが続きます。

下りが続きます。

脱藩の道 道標。

脱藩の道 道標。

小さな道に入ります。11時47分。

小さな道に入ります。11時47分。

四国は柑橘類がよく似合います。

四国は柑橘類がよく似合います。

引き続き小道を進みます。

引き続き小道を進みます。

引き続き小道を進みます。

引き続き小道を進みます。

引き続き小道を進みます。脱藩の道、道標の上に小さく「金沢家代々墓」という道標がありました。11時52分。

引き続き小道を進みます。脱藩の道、道標の上に小さく「金沢家代々墓」という道標がありました。11時52分。

周期の景色。

周期の景色。

再び舗装道路へ。

再び舗装道路へ。

樺ノ川五輪塔群

12時18分、樺ノ川五輪塔群を拝見します。津野町教育委員会による説明板が実に興味深いため、主要部分を引用します。

「樺ノ川五輪塔群
(〜中略〜)材質は花崗岩で、最大のものは高さ1・25m、水輪の周囲1・40mで、立派な造りである。五輪塔の下からは火葬にされたと思われる人骨が埋骨された中世の備前焼が発見されており、身分の高い人物の墓所と思われる。古庵という地名からすれば、かつてこのあたりに存在した寺、勝宝寺にゆかりのある者の墓とも考えられている。
五山の高僧として名高い義堂周信(1325〜1388)の「日工集」1378(永和四)年十二月の条に「十月に九一歳で亡くなった父を子供や孫や兄弟たちが荼毘(だび)に付し、西谷の聴松院近くへ送った」という内容の記述があり、この墓所が義堂一族のものであったとも考えられる。また、かつて樺ノ川周辺の所有者であった野見氏(津野氏一族)の墓所とも考えられる。
五輪塔はもとあった場所からはかなり動いている。出土した古備前の壺は町指定文化財として郷土資料館に保存されている。」

しばし立ち止まり、五輪塔群をみつめながら説明板の内容を味わっていると、形のない物に手でさわっているような不思議な感触がありました。龍馬に導かれた過酷な徒歩独行取材が心身を研ぎ澄ましてくれたおかげで、得難いものを得ることができたと独り頷きました。

集落を抜けていきます。

集落を抜けていきます。

集落を抜けていきます。樺の川集会所前。11時59分。

集落を抜けていきます。樺の川集会所前。11時59分。

木の道標は景色にあいます。

木の道標は景色にあいます。

12時6分、棚田の景色。

12時6分、棚田の景色。

下りきった感じがあります。

下りきった感じがあります。

道中の景観。

道中の景観。

樺ノ川五輪塔群。12時18分。

樺ノ川五輪塔群。12時18分。

樺ノ川五輪塔群。12時18分。

樺ノ川五輪塔群。12時18分。

新荘川

午後12時47分、姫野々の集落、国道197号線に出ます。葉山の街を少し歩いてからバスに乗ろうと、梼原方面に引きずりだした脚を運びます。1時半頃、左手にきれいな川をみて思わず川岸まで降りていきました。この川は新荘川といい、標高1100mの鶴松ヶ森を源とし、津野町から須崎湾へと注ぐ清流です。ニホンカワウソが最後に発見された川であり、かわうそ自然公園などがあるのはそのためです。現在でもその清らかさから天然の鮎などがみられます。

越えてきた山。

越えてきた山。

197号線がみえてきました。

197号線がみえてきました。

197号線に到着。12時47分。

197号線に到着。12時47分。

197号線に出たところ。

197号線に出たところ。

197号線に出たら右折、葉山の町を目指します。

197号線に出たら右折、葉山の町を目指します。

葉山の町がみえてきました。午後1時25分。

葉山の町がみえてきました。午後1時25分。

新荘川がみえてきました。脱藩の道は、随所で高知の川に癒やされます。

新荘川がみえてきました。脱藩の道は、随所で高知の川に癒やされます。

「姫野々親水公園」の立札に誘われて川岸におります。

「姫野々親水公園」の立札に誘われて川岸におります。

清流、新荘川。

清流、新荘川。

美しい新荘川と背後の山々に目も心も癒やされながら少し佇みます。バス乗車位置に定めた葉山役場前には1時50分に到着しました。折よく2時5分梼原行きがあります。次は3時29分ですから助かりました。定刻より少し遅れて着いたバスに乗り込み、標高400mを超える梼原に向かいます。

さらに進みます。

さらに進みます。

1時36分「かわうそ自然公園」の看板がみえてきました。見物したいのは山々ですが、時間がなく先を急ぎます。

1時36分「かわうそ自然公園」の看板がみえてきました。見物したいのは山々ですが、時間がなく先を急ぎます。

かわうそ自然公園と新荘川。

かわうそ自然公園と新荘川。

「風車の駅 1km」という案内があります。次回があれば、いってみたいものです。

「風車の駅 1km」という案内があります。次回があれば、いってみたいものです。

津野町役場。1時47分。

津野町役場。1時47分。

バス停「葉山役場前」。1時49分に到着し、ここから2時5分の梼原行きに乗ります。時間がよすぎます。近くに食堂があり、ビールと一服に後ろ髪をひかれつつあきらめます。

バス停「葉山役場前」。1時49分に到着し、ここから2時5分の梼原行きに乗ります。時間がよすぎます。近くに食堂があり、ビールと一服に後ろ髪をひかれつつあきらめます。

バス停「葉山役場前」時刻表。

バス停「葉山役場前」時刻表。

梼原

一時間程バスに揺られて3時過ぎ、梼原に到着。高所にある梼原の町に降り立つと空が近くなったような気がします。まずは和田城跡にある維新の門群像に向かいます。日没までになるべく多くの史跡を巡り、残りは明朝夜明けをまって訪れようと計画していました。

バスに乗って梼原へ。

バスに乗って梼原へ。

バスに乗って梼原へ。

バスに乗って梼原へ。

3時1分、梼原に到着。「雲の上の町」の名に相応しい空です。

3時1分、梼原に到着。「雲の上の町」の名に相応しい空です。

維新の門群像

維新の門群像のある和田城跡には天守閣が復元されており、遠目からもみえますから迷うことはないでしょう。天守閣のとなりに群像はあり、伊予国境を向いて立つ八志士の像は躍動感に溢れ、とても迫力があります。右から那須俊平(1807ー1864)、坂本龍馬(1835ー1867)、澤村惣之丞(1843ー1868)、掛橋和泉(1836ー1862)、前田繁馬(1835〜1863)、吉村虎太郎(1837ー1863)、那須信吾(1829ー1863)、中平龍之介(1842ー1864)の像があり、それぞれに雄々しい姿で伊予国境を向いています。

長文ではあるものの、素晴らしい群像に敬意を表して碑文をここに全文を引用します。

「碑文
幕末の風雲急を告げる文久二年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平、信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
それから年を経ること六年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮烈な死を遂げていた。
いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。
近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、この群像を建立した。
 平成七年十一月十一日 建立
 撰文 梼原町維新の門群像建立委員会
  会長 梼原町長 中越準一」

気を緩めずに維新の門 群像へと向かいます。

気を緩めずに維新の門 群像へと向かいます。

維新の門 群像のある和田城跡がみえてきました。

維新の門 群像のある和田城跡がみえてきました。

案内に従って右折。

案内に従って右折。

梼原川に掛かるわだじま橋を渡ります。

梼原川に掛かるわだじま橋を渡ります。

梼原川に掛かるわだじま橋を渡ります。

梼原川に掛かるわだじま橋を渡ります。

梼原川。

梼原川。

梼原川。

梼原川。

和田城跡に向かいます。

和田城跡に向かいます。

和田城跡・維新の門群像。3時12分。

和田城跡・維新の門群像。3時12分。

建物は「川西路地区構造改善センター」として利用されていました。この隣に維新の門群像があります。

建物は「川西路地区構造改善センター」として利用されていました。この隣に維新の門群像があります。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。右から、那須俊平、坂本龍馬、澤村惣之丞。

維新の門群像。右から、那須俊平、坂本龍馬、澤村惣之丞。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。掛橋和泉。

維新の門群像。掛橋和泉。

維新の門群像。那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、吉村虎太郎。

維新の門群像。那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、吉村虎太郎。

維新の門群像。

維新の門群像。

維新の門群像。前田繁馬。

維新の門群像。前田繁馬。

維新の門群像、碑文。

維新の門群像、碑文。

梼原町役場、史跡めぐり

梼原の中心街に入り梼原町役場やJA津野山本所が入るモダンな梼原町総合庁舎に立ち寄り、館内を見物します。続いて吉村虎太郎屋敷跡、六志士の墓、村人たちが道行く人々に茶菓子の接待をしたという茅葺きの茶堂、神幸橋などを巡り、4時半頃、この日の宿である民宿友禅に向かいます。友禅は少し葉山方面に戻ったところにあり、途中、那須俊平・信吾の墓にも手を合わせます。

梼原の街なかへ。

梼原の街なかへ。

梼原の街なかへ。

梼原の街なかへ。

梼原町役場。立派な建物です。周囲の景観を乱さない雰囲気に好感が持てます。3時37分。

梼原町役場。立派な建物です。周囲の景観を乱さない雰囲気に好感が持てます。3時37分。

吉村虎太郎庄屋屋敷跡。4時48分。

吉村虎太郎庄屋屋敷跡。4時48分。

吉村虎太郎庄屋屋敷跡。4時48分。

吉村虎太郎庄屋屋敷跡。4時48分。

梼原の町。

梼原の町。

忠魂碑。

忠魂碑。

六志士の墓(分霊)。吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の分霊を祀ります。3時58分。

六志士の墓(分霊)。吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の分霊を祀ります。3時58分。

六志士の墓(分霊)。吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の分霊を祀ります。3時58分。

六志士の墓(分霊)。吉村虎太郎、那須俊平、那須信吾、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の分霊を祀ります。3時58分。

茶堂。藩政時代からあり、諸仏を祀り津野氏の霊を慰め、地区の方々が輪番で行路の人々に茶菓の接待を行っていたそうです。この辺りにはいくつかあります。

茶堂。藩政時代からあり、諸仏を祀り津野氏の霊を慰め、地区の方々が輪番で行路の人々に茶菓の接待を行っていたそうです。この辺りにはいくつかあります。

茶堂の説明板。

茶堂の説明板。

茶堂。

茶堂。

那須俊平、信吾の墓へと向かいます。

那須俊平、信吾の墓へと向かいます。

気持ち良い景色。

気持ち良い景色。

那須俊平、信吾の墓。4時14分。

那須俊平、信吾の墓。4時14分。

那須俊平、信吾の墓。4時14分。

那須俊平、信吾の墓。4時14分。

那須俊平、信吾の墓。4時14分。

那須俊平、信吾の墓。4時14分。

梼原の空。

梼原の空。

民宿 友禅

明治14年に建てられたという友禅は梼原の歴史と旧家が味わえる宿です。脚を引きずりやっとの思いで宿につき、旧家の床の間のような部屋へと通されたら、保育園に通う娘と同じ重さの荷物をおろし矢も盾もたまらずビールを乞う。ビールとアテに出してくれた野菜の煮物のなんと美味しかったことか。

子供の頃から食が細く「もっとたくさん食べなさい」とか「食べるのが遅い」などといわれてきたはずが、気がついたら女将さんに「そんなにがっつかないでゆっくり食べなさい」と微笑ましく諭されていました。あまりに心身を消耗し必死になって食らいついていたのでしょう。生まれて初めてかけられた言葉でした。

近くは雲の上の温泉があり、綺麗な建物と源泉掛け流しの良質な湯が特長ときき、すぐに向かいます。湯に浸かるとと身体の各所がじんじんと痺れて急激に回復しているのがわかりました。

女将の伊藤辰子さんは御年82歳、一人で宿を切り盛りされ矍鑠とされています。運良く宿泊客は筆者だけでしたので、郷土料理と酒で疲れを癒しつつ梼原古来の話も伺うことができ、これぞ旅の醍醐味とでもいいたい一夜となりました。

翌日は脱藩の道最大の難所、県境の韮ヶ峠を越え愛媛県河辺町にあるふるさとの宿までの約36kmを歩く、最も困難な一日であるため、夜明け前に出発する予定でした。夜の内に支払いを済ませ、朝食兼昼食となるお弁当を女将さんにお願いして眠ります。

桂浜の朝日を拝し龍馬生誕地を出発してからここまで、景観だけでなくほとんどの曲がり角や道標も複写した写真は1000枚に達していました。

〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道⑤〜三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」に続く