〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道⑤〜三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
目 次
〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道
三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
国境の韮ヶ峠を越える、旅の最高潮
文・写真 石塚登喜衛
三日目となる10月30日(水)はいよいよ旅のハイライト、土佐と伊予の国境(韮ヶ峠)を越える日です。民宿のある太郎川公園付近から梼原の中心部を抜けて韮ヶ峠を越え、男水自然公園までの約32㎞。その後4km先にある脱藩の道に詳しい宿泊先「ふるさとの宿」に向かいます。
目 次
まえがき/旅支度
前 日「高知市内史跡巡り」
初 日「坂本龍馬生誕地〜佐川」
二日目「佐川〜朽木峠〜梼原」
三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
五日目「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」
年月日平成25年(2013年)10月30日(水)
行 程民宿友禅(午前5時40分)、梼原中心街(6時10分)、宮野々番所跡(8時25分)、六丁(10時)、茶や谷の茶堂(10時41分)、松ヶ峠番所跡(11時34分)、アオザレ(午後12時24分)、高階野(1時10分)、韮ヶ峠(2時9分)、龍馬岩(3時30分)、男水自然公園(4時8分)
移動距離約32km
歩 数39,871歩
グーグル・マップのポイントつき地図は一時的に掲載を見送っています。グーグルから、ポイント数が多すぎると指摘を受けたためです。他の対処法を考えております。少々お待ち下さい。
民宿友禅〜梼原中心街史跡
夜明け前、民宿友禅出発
民宿友禅の女将さんに用意してもらった握り飯と郷土料理の田舎寿司(これがとびきり美味しい)をバッグにつめ午前5時40分、夜が明ける前に宿を出発。この地の標高は400mを超えており気温は11度しかありません。30分ほど歩き梼原の中心地に着いた頃には夜が明けます。道沿いにある中平龍之助の墓、吉祥寺をみた後、三島神社に参拝します。
三島神社
三嶋神社には神幸橋という屋根付きの流麗な橋を渡っていきます。三嶋神社は津野山郷を拓いた津野氏の開祖、津野経高が919年(延喜19年)に静岡の三嶋神社を勧請したものです。津野経高は平安前期の公卿、史上初の関白となった藤原基経の後裔といわれています。910年(延喜10年)伊予に流罪となった後、土佐国津野郷を拓き津野と名を改めて津野氏の祖となり、土佐七雄の一つに数えられる豪族となります。梼原という名は経高がこの地に梼の木が多いことから名づけたといいます。
朝もやの中、1803年(享和3年)に再建された逞しい本殿に困難が予想されるこの日の旅の安全を祈願します。境内には樹齢400年、樹高37mのハリモミがあり、津野親忠と中平左京亮光義が長宗我部軍として豊臣秀吉の朝鮮出兵に従った際に持ち帰ったことから、通称朝鮮松ともいわれるそうです。
他にも見ておきたい場所はあったものの、韮ヶ峠付近は標高約1000mとなる上、山が断続することから夜の歩行を避けるため、痛み始めた脚をおして足早に進み、7時前には梼原の中心街を抜けます。梼原の中心街はこまめに脱藩の道の道標が設置されており、道順を間違うことはありません。
梼原中心街を抜け、宮野々番所跡へ
梼原の茶堂
街なかを抜けると道は山に向かって長く伸びています。歩き出すとすぐ、また茶堂がありました。藩政時代から続く梼原の茶堂は2間(約3.6m)、1間半(約2.72m)程の板敷き木造平屋建、茅葺き屋根の建物。諸仏を祀り津野氏の霊を慰めるとともに、地区の人々が輪番で行路の人々に茶菓子の接待を行う、信仰と社交の場でした。現在でもそのうるわしい役割を続けている所もある、というようなことが説明板には記されていました。茶堂の柱には「旅人の休憩の場です。土足で上がらないで下さい。」と書かれた板が貼られており、江戸時代から今日まで受け継がれたうるわしさに感じ入ります。
維新トンネル、藤の越トンネル
30分ほど経ち7時半を過ぎると、目の前の山並みは幾重にも重なってきます。道沿いに「龍馬の森(22世紀の森)」という看板をみつけ、龍馬生誕150年にあたる1985年(昭和60年)梼原町によって造られた大きな公園であることを知ります。
7時35分、梼原の中心街を抜けて40分程で維新トンネル、続いて藤の越トンネルがあります。脱藩の道は藤の越トンネル手前を左ですから注意してください。少し左の道に入ったところに「坂本龍馬脱藩の道」の道標がありますが、小さい上に正面にないのでうっかり見落としてしまいそうです。
7時50分に藤の越トンネル手前を左折して、8時頃から森の中を歩く土の道に入ります。竹林や沢を見ながら10分程歩くと舗装路に戻り、再び県道2号線に戻り城川、四万川方面に進みます。当面の目的地である宮野々番所跡までもう少し。ちなみに四万川とは四万十川とは違い、梼原川の支流です。
九十九曲峠
8時22分、九十九曲峠との分岐にさしかかります。土佐から伊予に抜ける道は、九十九曲峠と韮ヶ峠の二つがあり、どちらも土佐藩脱藩者が駆け抜けた道です。前者は吉村虎太郎が脱藩し、かつては龍馬もここを通ったといわれました。しかし、その後、龍馬の姉千鶴の夫、高松順蔵が澤村惣之丞の脱藩を書いた「覚 関雄之助口述之事」を基に村上恒夫氏らが調査を重ね、今日知られるように、後者の韮ヶ峠越えを含む龍馬脱藩の道を解明しました。その御苦労は村上氏による『坂本龍馬脱藩の道を探る』(新人物往来社)に詳しく書かれています。
宮野々番所跡〜六丁
宮野々番所跡
宮野々番所跡は九十九曲峠分岐を過ぎるとすぐにあります。1629年(寛永6年)に始まり、宝暦年間(1751〜1763)から明治初期まで片岡氏が代々番役人を世襲したそうです。現在も同じ片岡氏が居宅とされています。田中光顕揮毫による「宮野々関門旧址」石碑や脱藩の道絵地図などがあります。時折絵地図を見かけますが、単に道の不安が解消されるというだけでなく、どことなく気持ちを安心させてくれます。
津野山舞台
宮野々番所跡を離れると10分程で宮野々廻り舞台(津野山舞台)があります。県指定文化財となっている鍋蓋式廻り舞台で、この地域に4つ残っている内の一つです。舞台はすべて寺社境内にあり、津野山文化を象徴する津野山古式神楽が奉納されます。津野山古式神楽は、藤原(津野)経高が913年(延喜13年)に津野山郷に入った際に、神話を劇化したものを神楽として伝えたのが始まりと伝わります。
津野氏入国伝承の地
清らかな四万川川沿いの国道2号線をひたすら歩き、川角橋を過ぎたあたりから山はさらに深くなっていきます。上成バス停付近には「津野氏入国伝承の地」の看板があり、津野山文化を花開かせた津野氏の初代経高公は上成山首の地よりはじめたことを知ります。
長生庵・津野二十一代定勝墓、後生庵跡、上成番所跡
伝説の郷「東向」
牛鬼鎮魂之地、笠仏・曲り渕
六丁
気温も19度まで上がってきた10時、六丁に到着。川沿いを歩いていると「梼原龍馬会 とまり小屋」の看板がありました。作業中の方に話しかけてみると、とまり小屋はスナック彩華さん(TEL:0889-67-0022)が運営しており、2,000円ほどで寝泊まりできる部屋を提供し「スナックの方で朝食も食べられる」とのことでした。
茶や谷の茶堂
六丁の町を抜けて茶や谷を目指します。三嶋神社、龍王宮を過ぎて40分ほどで到着します。ナラ山、韮ヶ峠という最大の難所を目の前に茶や谷の茶堂で休憩。豊かな秋の山々と静かな六丁の集落に身体を鎮めると山頭火の歌を思い出します。「かすんでかさなって山がふるさと」。
茶や谷の茶堂〜男水自然公園
松ヶ峠、アオザレ
気合いを入れて出発。30分ほど歩くと「百姓とまり木 かまや」が道沿いにあり、この後畑の間を抜けて山道に入って行きます。韮ヶ峠の前哨戦ともいえる5.7㎞先の松ヶ峠に挑み、11時35分松ヶ峠番所跡に到着。猪と遭遇しながらひたすら登ること1時間、午後12時30分土佐のアオザレを目にし記念に小さな石をひとつ拾います。
ナラ山
高階野の集落
アオザレを過ぎたらいよいよ土佐と伊予の国境、韮ヶ峠に向かいます。標高は1,000m近くになっており、梼原の町から遠く見上げていた山々がとても近くにあります。いったん長い下りをゆき、午後1時10分頃、高階野の集落に到着。ここから再び韮ヶ峠へと向けて急な登りがあります。高階野前の下りであまり気を抜かないように気をつけてください。筆者は、ここまでの登り降りで左膝は限界に近づいていました。そこへもってきて気を抜いてしまったため、へたり込んで休憩となりました。
韮ヶ峠
水分をとって休憩すると気力がある程度戻りました。いよいよ韮ヶ峠への最後の登り。背負った12kgの取材道具は左脚の激しい痛みを生んでいましたが国境まであと少しです。何度も立ち止まりつつなんとか2時30分舗装道路が見え、案内に沿って左手に数十メートル歩くとようやく韮ヶ峠に到着。重い荷物を下し、一服します。
国境の韮ヶ峠は小さな公園のように整備されています。韮ヶ峠と文字が刻まれた太い丸太二本が打たれ、土佐国・伊予国国境の線があり、龍馬の足あとが象られていました。案内板なども設置されています。
「覺
関 雄之助 口供之事
三月二十六日 四満川ヨリ韮ヶ峠ニ至ル
信吾コレヨリ引返ス 小屋村ヨリ榎ヶ峠 ー 横通リ ー 封事ヶ峠 ー 三杯谷 ー 日徐 ー 水ヶ峠ヲ経テ共ニ泊レリ
二十七ゝ北表村ヨリ宿間村ニ至ル
俊平コレヨリ引返ス
宿間村ヨリ 金兵衛邸ヨリ 招賢閣(※バツで消されている) 三田尻マデ 二日ヲ要セリ
明治六年十一月十五日 自宅ニテ誌ス
高松小埜
冩シ」
村上氏が解明されるまで、坂本龍馬脱藩の道は九十九曲りを通ったと考えられていました。氏と仲間による懸命な解明のおかげで今日、このように脱藩の道を歩くことができるわけです。
道標が抜かれ、道を見失う
韮ヶ峠を越えると下り。引き続き県道と交差しつつ山道を進んでいると、土木工事により脱藩の道の立札が引き抜かれ、道がわからなくなりました。わかるように立てておくことは可能な状況。近くに工事関係者を探しましたが、見当たりません。
困った末「ふるさとの宿」に電話で教えを乞い、コンパスを使って乗り切ったものの、ひやりとさせれられます。しかし、さすが脱藩の道に造詣深い「ふるさとの宿」です。電話で少し話しただけで、「そこは西にいってください」と即答。助かりました。
大師堂
小屋村
龍馬岩
山道をしばらくいくと龍馬岩があります。大きな岩盤があり、それが龍馬の姿にみえるというのですが、センスがないのか姿がみえません。悔しくて何度か挑戦しましたがだめでした。
小村の里
男水自然公園
龍馬岩を過ぎると徐々に集落に降りてきます。そのまま県道に出て4時頃、男水自然公園に到着。龍馬も飲んだという名水で喉を潤します。ここから榎ヶ峠の手前までは龍馬が実際に通った道は潰れており、迂回路をいきます。左脚をかばいながら休憩を繰り返し、亀のような速度で進みます。精神的にも限界を感じていました。
榎ヶ峠の立札までいきたかったですが、その手前付近で日没。明日は榎ヶ峠から始めることとし車を手配しふるさとの宿に向かいます。今回の行程中最も厳しい一日は終わりました。
※徒歩の場合、脱藩の道からふるさとの宿へは、御幸の橋より脱藩の道を外れ左に川を見ながら4㎞ほど県道を下っていきます。
迂回路
男水自然公園から榎ヶ峠手前までは龍馬の通った道をいくことができず、迂回路を辿ることとなります。予定では、この迂回路を越え、榎ヶ峠手前から明日を始めるつもりでした。しかし、左膝の痛みが激しく、男水自然公園までとし迂回路は明日の調子次第としました。
ふるさとの宿
となりを清らかな秋知川が流れる「ふるさとの宿」に到着。荷物を降ろしたら、カメラだけもって間髪入れず、同宿が運営する「脱藩之日記念館」を取材します。少しでも安心して気が抜けたら動けなくなりそうだと思ったからです。
睡眠時間を稼ぐため、急いで風呂に入り一気にビールを流し込んだら食堂へ。目の前にはアマゴのサツマ汁、ニジマスの刺身、大洲市内で作られた麦味噌の味噌汁など郷土料理が並び、疲れた身心に染み入る格別な味でした。
ふるさとの宿は、脱藩の道をガイドできる方が二人もおり、脱藩之日記念館も運営されるなど龍馬脱藩の道に精通した愛媛の宿としておすすめできる存在です。取材仕事でかなり多くの旅館に宿泊してきましたが、土地とその四季を肌と舌で感じられ、あれだけ代金も手頃という宿は貴重です。脱藩の道関連の催し物なども随時開催されていますから、詳しくはふるさとの宿公式ホームページ(http://www.kawabe-furusato.com/)をご覧ください。