〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道⑥〜四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
目 次
〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道⑥
四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
徒歩行最終日。アクシデント続発により辿りつけず
文・写真 石塚登喜衛
龍馬生誕地を出発してから四日目となるこの日は、榎ヶ峠に始まり、徒歩行の最終目的地である旧宿間村(亀ノ甲)を目指す距離22kmの行程。比較的短い距離に安心していたのですが、前週に猛威をふるった台風27号の影響による崖崩れと倒木に、荷物重量過多と訓練不足による脚の痛みも加わり、旧宿間村(亀ノ甲)にたどり着くことができませんでした。
目 次
まえがき/旅支度
前 日「高知市内史跡巡り」
初 日「坂本龍馬生誕地〜佐川」
二日目「佐川〜梼原」
三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
五日目「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」
年月日平成25年(2013年)10月31日(木)
行 程榎ヶ峠下(8時32分)〜榎ヶ峠(8時57分)〜城の森(9時31分)〜夜明けの道記念碑(9時52分)〜御幸の橋(10時19分)〜崖崩れ(10時50分)〜封事ヶ峠(12時50分)〜三杯谷の滝(1時55分)〜日除(2時40分)〜水ヶ峠(3時10分)〜泉ヶ峠(4時31分)〜倒木(4時50分)
移動距離約16km
歩 数26,000歩
グーグル・マップのポイントつき地図は一時的に掲載を見送っています。グーグルから、ポイント数が多すぎると指摘を受けたためです。他の対処法を考えております。少々お待ち下さい。
榎ヶ峠
午前8時20分、脱藩の道(榎ヶ峠の手前)に戻ります(ふるさとの宿から脱藩の道に戻る通常ルートは、御幸の橋までの約4㎞です)。本来は昨日の最終地点である男水自然公園に戻るのが筋です。しかし、男水自然公園から榎ヶ峠までは龍馬の歩いた道は通行できず迂回路となっているため、省きました。ゆとりがあれば歩いたところですが、目覚めた時点ですでに一晩では回復しきれない左脚の痛みが襲っていたことも大きな問題でした。
歩き始めると道々に草花の解説版が設置され、感心しつつ山道を榎ヶ峠へとむかいます。30分と少し歩いた8時57分「榎ヶ峠」と書かれた道標に到着しました。
城の森
山道は続き、時に急峻な崖につくられた狭い道をいくと、9時30分頃、山中に案内板をみつけます。「城の森(山の神城)のこと」と書かれています。四国を平定した戦国武将、長宗我部元親ゆかりの古戦場とのことでした。
旅の下調べでは知り得なかった歴史に現場で出会えるのはとても豊かなことであり、旅を逞しいものにしてくれます。さらに、この案内板は「河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」によるものでした。龍馬に直接関係なくとも、脱藩の道を歩く我々の知性を刺激してくれる配慮に大いに感謝、全文引用します。
「城の森(山の神城)のこと
天正三年(1575年)土佐一国を平定した長宗我部元親は翌四年四国併呑を企て、その軍団は南予一帯に進入を開始した。
その一軍団は予土国境の韮ヶ峠を越えて小屋村に進入し、一挙に笠形城を攻略、奪取した。同城生き残りの城士は、その枝城であるこの城の森城(地元・国木部落では山の神城と呼んでいる)に轉進(てんしん)・防戦を策したが、急迫して来た軍団を防ぎきれず各個逃散したものの逃げきること叶わず全員国木部落の諸所で殺戮された。
部落の者がその冥福を祈り討死した場所に建立した石塚が昭和初期には十数基あったが現在残っているにはたったの三基である。
いまも国基部落では毎年二回念仏行事でその霊を供養している。
また、その時越えた小屋・国木境の峠に榎峠と名付けたのは軍団であると伝えられている。なお、軍団の規律はいたって、きびしく地元民に対しての略奪・暴行等は全然なかったとのことである
河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」
韮ヶ峠を越えて小屋村に進入、とは歩いてきた道と同じです。榎ヶ峠と名付けたのは長宗我部の軍団であったという話も印象深く、供養の念仏行事が現在も続いているという豊かな歴史も知ることができました。
筓(こうがい)岩
城の森(山の神城)を後にすると、すぐに巨石がみえ城の森と同じように素晴らしい案内板が設置されています。これも引用させていただきます。
「筓(こうがい)岩
嘉永二年(一八四九年)四月、大洲十一代藩主、加藤泰幹、小田筋迎郷の際、同月三日神納天神社に宿陣、翌四日小屋村視察に向はれる途次ここに駕籠を止め休息された。その時同行の姫君がこの岩に上ってあそばれているうち、岩の裂目に筓(こうがい。昔、髪をかきあげるための理髪具で、のち髪飾としても使われた。)を落とされ、どうしても取ることが出来なかったのでそのままにして行かれた。
それからこの岩を地元ではこうがいいわと呼ぶようになったとのことである。
河辺村坂本龍馬脱藩の道保存会」
岩の間に姫が落とした笄。岩の割れ目を覗いてみると、真っ赤の落ち葉が一つ。笄と落ち葉が重なって思わずシャッターを押しました。案内板のおかげで得られた充実感でした。惜しむらくは絵が描けないこと。写真で複写しかできないのが少しさびしくもありました。
夜明けの道記念碑
興味深く説明板を拝見した後、再び歩き出します。10分ほどで小さな茶堂があります。今回の旅は快晴に恵まれましたが、もし降雨であれば、この茶堂は実にありがたいだろうと想像します。9時44分、舗装路に出ます。国木の集落を抜けていくと9時52分、夜明けの道記念碑がありました。立派な石碑と説明板があります。背後にある抜けの良い美しい山並みとともにみることができます。
御幸の橋
9時56分、また茶堂があります。四国の山並みに感心しながらいくと再び山道に入り、すぐに川がみえます。川とともに山道を下るのですが、この時の水音がとてもきれいで「水音といっしょに里へ下りて来た」と、また山頭火の歌が頭をよぎります。四国を放浪した山頭火、同じ国の山中に感慨を深めます。
10時19分、御幸の橋に到着。天神社に付属するこの橋は安永2(1773)年に建てられ、明治19(1886)年に流失・再建されましたから、龍馬がこの橋を渡る90年程前に建てられたことになります。寸法は桁行8.3m、梁間3.4m、梁上1.75m、中央部がややせり上がった湾曲の形となっており、周囲の緑や川とともに印象的な景観を構成しています。
橋に屋根がついているのが特徴で説明板にはこうありました。「せめて橋の上だけでも雨、露を防いであげたいという信仰心と少しでも永持ちする橋にしたいという願いから、屋根のある橋が工夫されたものと思われる。」
少し休憩するため川岸に下ります。きれいな川で手と顔を洗ったら大きな石に座って、下から御幸の橋を眺めながら一服します。
崖崩れに遭遇
あまり休むと動けなくなりそうなので10分程の休憩として、10時30分に御幸の橋を出発。横通りを経て三杯谷の滝を目指します。
急な斜面につくられた一人がやっと通れる山道を歩いていると、突然目の前の道がなくなりました。斜面は崩れ、大きな木が何本も倒れており一見して崖崩れでした。背筋に冷たいものが走り、数歩後ずさります。
道は完全になくなっており倒れた木を乗り越えて進むことはできません。ひとまず数十メートル戻り前日に宿泊したふるさとの宿に連絡、自治体への通報などを依頼した後、対策を練ります。
宿の関係者が現場を確認しにくるというので、そこで迂回路を案内してもらおうとも考えながら、現場をもう一度確認してみると崩れた斜面の手前に這い上がれる場所を発見。そこをよじ登って、崩落箇所を上から迂回。20mほどの崩落地点を越えて脱藩の道に戻ることができました。
※翌月確認したところ自治体によって通行止めとなっており、迂回路が設定されているとのことでした。
崖崩れは何とか乗り切ったものの、1時間近くをロスした上に急斜面を這い上がる際に元々痛めていた左脚をさらに悪化させてしまいました。痛みが激しく30分程休憩します。訓練不足を悔いるとともにカメラという複写機の重さを恨みます。
横通り
脚を引きずりながら横通りに向けて歩き出したのが12時過ぎ。横通りを抜けて封事ヶ峠を目指します。
封事ヶ峠
山中、道標のない分岐に迷う
山道で珍しく道標のない分岐にでました。ここで道を間違うのは辛い。とりあえず見通しのよい直進の道を少しいって様子をみると、どうも雰囲気が違います。さらに少しいっても同じ感覚でした。しかし、脱藩の道のパンフレットのようなものが落ちていたため、さらに悩みます。結局分岐に戻り、左右のうち左を進むと正解でした。どうやら、直進の道は林業の関係か何かで新しく切り開かれたもののようで、機材が通る雰囲気があります。被害は最小限ですみましたが20分程ロスをしてしまいました。
三杯谷の滝
封事ヶ峠を越え、舗装道路と交差しながら進みます。三杯谷の滝についた時には2時近くになっていました。三杯谷の滝は、木菱川上流にある高さ15mの美しい滝。下から上に滝をめぐって遊歩道が設置され、滝がよくみえるように龍神橋という屋根付橋がかかっています。豊かな樹々と流れる清流の滝は、崖崩れによる心身の疲労を癒やしてくれるようでした。
アクシデント続き。落ち着いて対策を考える
三杯谷の滝の上にある休憩所の手洗いで用を済ませ、今後の行程を考えます。ちょうど三杯谷を上がってきたところに、みやすい榎ヶ峠〜泉ヶ峠までの脱藩の道案内図が設置されていました。距離も記されています。
日没の5時15分までに8km先の泉ヶ峠を越え、さらにそこから徒歩行最終目的地の旧宿間村(亀ノ甲)までさらに約8km、計16kmあります。
みやすい案内図には、三杯谷〜日除が(2km/徒歩30分)、日除〜水ヶ峠(2km/同30分)、水ヶ峠〜泉ヶ峠(4km/同1時間)とあります。
今回の旅では脚を負傷するまで平地で1時間約6kmが標準でした。登り降りを勘案すると自分の脚と案内図の距離/時間基準は近いようです。いまの脚の状態を考えると時速3〜4kmがせいぜいとして、日没頃に泉ヶ峠だろうと予想。
泉ヶ峠以降は夜道をいくしかないと諦めて出発しました。それでも、日のあるうちに行けるところまでいきたいと、痛みに耐えてペースを上げます。
日除、水ヶ峠
山道と舗装道路、人里の合間を交差しながら進みます。途中、人里の合間をぬっていると道を見失ってしまいました。疲れはピーク、脚は痛いし、時間はないところでの迷子は痛いです。運良く農作業をされている方を発見。道を伺うと脱藩の道はもちろんご存じで、「ちょうど車で出るから乗ってきな」といっていただきました。拾う神ありです。
「一人かい? 珍しいね」。といわれたのでやはり複数で歩く方が多いのでしょう。自分もその方が安全と思いますから、そちらをおすすめします。迷い始めた地点で車から降ろしていただき、引き続き歩きます。
日除の集落に着いたのは2時40分、日除から 1.5㎞先の水ヶ峠までは舗装道路が続きます。3時10分、水ヶ峠を通過。道標には「水ヶ峠 泉ヶ峠まで3.7km」とあり、その後は舗装道路と交差しながら山道をいきます。3時50分、山道で道標が倒れていて、かなり落ち込みます。人里と違い、山道ではこれまで一度も人と出会ったことはありません。ここで間違えるのはどうしても避けたいところです。
方角を勘案して進み、少し歩くと脱藩の道標がありほっとします。この辺りで脚の痛みがさらに酷くなり、ペースがあがりません。山道を進み、一旦人里らしき場所に出て再び山道をいくと、脱藩の道標に「泉ヶ峠まで400m」の文字を発見。
脱藩の道標が倒れていて迷う
泉ヶ峠
なんとか日没前の4時40分、坂本龍馬宿泊の地である泉ヶ峠に到着しました。文久2年(1862年)3月26日、坂本龍馬、沢村惣之丞、那須俊平は伊予に入って初めての一夜をこの宿場で過ごしました。龍馬脱藩の頃は栄えた宿場であったそうです。現在は「坂本龍馬宿泊の地」の石碑、宿場の見取り図や配置を示した立札などが整備されています。
傍らに腰掛けて小休止。旧宿間村(亀ノ甲)まであと約4kmというところで、脚が限界でした。三杯谷以降のペースアップ無理強いはかなりきいたようでした。とはいえ、ここまできたら脚を引きずってでもいきたいと考えました。
旧宿間村に向かうも、倒木に阻まれる
軽食をとり、靴の紐を締め直し「最後になって夜道か」と呟きながらこんな時のために用意した強力なコンパクト軍用フラッシュライトを取り出しやすい位置にセットします。すでに夕陽がさしてきました。徒歩行の最終目的地である旧宿間村(亀の甲)までは約8㎞。意を決して歩き出した直後、倒木に遭遇。
先の崖崩れのように急斜面ではないものの、今度は倒木が入り組み、這いずり回りながら何度かいこうとするものの抜けられません。
泉ヶ峠に戻り迂回路の調査をしていると日没。夜の山道でも通常通りの状態で脱藩の道標が続いていればよいのですが、多数の倒木や地盤の崩落等は危険です。脚を引きずっている現在の身体では踏破は難しいと判断しました。
舗装路(県道)で危険箇所を迂回しながらという手もありますが、夜道、脱藩の道標なしではこれも難しいでしょう。徒歩行最終目的地の旧宿間村(亀の甲)を目前にして悔しくもこの日はここまでとなりました。
タクシーを呼んでJR内子駅に移動。そこからJR内子線に乗り大洲駅にて下車、この日の宿泊地である大洲市中心部に到着しました。タクシーの車中「夜道でもいけると思ったのですが、崖崩れで越えられませんでした」と話すと、「最近、イノブタが多くて夜は危ないよ」と教えていただきました。
旅の最難関は前日と考えており、この日は最も移動距離が短い徒歩行の最終日。スムースに旧宿間村(亀の甲)に着き、成し遂げた感慨に浸ることを考えて出発したものの、酷くなる左脚の痛みに加え崖崩れや倒木という大きなアクシデントに遭遇し最も肝を冷やした一日となりました。