〈番外編〉坂本龍馬 脱藩の道⑦〜五日目「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」

船路の龍馬を車で追う

文・写真 石塚登喜衛

いよいよ旅の最終日。「旧宿間村〜大洲城下〜長浜港」の予定でしたが、昨日のアクシデント続発により「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」に変更となりました。

目 次

まえがき/旅支度
前 日「高知市内史跡巡り」
初 日「坂本龍馬生誕地〜佐川」
二日目「佐川〜梼原」
三日目「梼原〜韮ヶ峠〜男水自然公園」
四日目「榎ヶ峠〜泉ヶ峠」
五日目「泉ヶ峠〜旧宿間村〜長浜港」


年月日平成25年(2013年)11月1日(金)
行 程泉ヶ峠〜旧宿間村 〜臥龍の渕〜志保町界隈〜大洲城〜江湖〜冨谷金兵衛邸〜肱川あらし展望公園

肱川あらし展望公園からの眺め。龍馬が下関に向けて船出した長浜港、そして瀬戸内海が見渡せます。

肱川あらし展望公園からの眺め。龍馬が下関に向けて船出した長浜港、そして瀬戸内海が見渡せます。

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脱藩の道 地図。五日目の行程は160番「泉ヶ峠」〜206番「肱川あらし展望公園」です。 地図に道のないところは、概ねの見当で指定しました。ただし、51番「日下橋」〜167番「旧宿間村」までは山中でも「脱藩の道」道標が立てられていますから、それに従えば問題なくいけます。道標が工事業者に抜かれていたり、新しく林道ができたため道標がないなどの場所は全行程中3か所ほどあり、そこは写真にて撮影し本文内で説明しました。(2013年11月現在)

旧宿間村(亀ノ甲)

旧宿間村(亀の甲)から舟に乗り小田川、肱川を上った龍馬にあわせ、今回の徒歩行における最終目的地は旧宿間村です。アクシデントにより昨日歩き残した泉ヶ峠〜旧宿間村を歩くため、大洲市内からレンタカーで旧宿間村まで移動し泉ヶ峠まで往復します。

昨日の無理強いにより脚は完全にダメになってしまい、泉ヶ峠〜旧宿間村(亀ノ甲)は車を止めて歩き、また車で移動してできるだけ歩きという情けないことになりました。龍馬生誕地から連続して旅できる機会はもうないかもしれないというのに、残念です。

石上峠を越えて県道を下り集落を抜けると小田川があらわれ「坂本龍馬脱藩の道 宿間村(亀の甲)」の看板を発見。 野山を越え4日と数時間をかけて独り歩いた約120㎞を振り返りしばし佇みます。

文久2(1862)年3月24日、沢村惣之丞とともに土佐を脱藩した龍馬は27日(新暦4月25日)の朝、泉ヶ峠を発ちます。彼の脚なら2時間とかからずにここまで来たでしょう。龍馬は高知市上町の家から旧宿間村まで3日と2時間程で駆け抜けたのです。舟に乗った龍馬は大洲の中心地に近い臥龍近辺に停泊、志保町界隈で昼食をとり、再び舟上を長浜までいきました。

泉ヶ峠から旧宿間村(亀ノ甲)へ。

泉ヶ峠から旧宿間村(亀ノ甲)へ。

泉ヶ峠から旧宿間村(亀ノ甲)へ。

泉ヶ峠から旧宿間村(亀ノ甲)へ。

龍馬が船に乗った旧宿間村(亀ノ甲)。

龍馬が船に乗った旧宿間村(亀ノ甲)。

龍馬が船に乗った旧宿間村(亀ノ甲)。

龍馬が船に乗った旧宿間村(亀ノ甲)。

龍馬が船に乗った旧宿間村(亀ノ甲)。

龍馬が船に乗った旧宿間村(亀ノ甲)。

旧宿間村(亀ノ甲)に設置された案内板。

旧宿間村(亀ノ甲)に設置された案内板。

臥龍の渕

レンタカーに戻り、肱川沿いに車を走らせます。目指すは龍馬が昼食休憩した臥龍、志保町です。臥龍は大洲城の手前、肱川がぐっと蛇行するあたりにある渕であり、景勝地として知られています。

案内板によれば、「かつて藩主加藤泰恒は、桜を吉野から、かえでを龍田からから移植して風情を加え、歴世藩主遊賞の地であった。その後次第に廃れてしまったが、明治30年頃、河内寅次郎がこの地を購入して風光明媚な臥龍山荘を建てた」とのこと。景観を守ってきた大洲の方々の愛着を感じます。

龍馬が停泊した幕末は、歴代藩主が加えた風情が色濃く残る場所であったでしょう。旅の初日から続いた好天は、この日、やや曇り空となったものの、川岸におりて眺める臥龍の渕と山荘は洗練された心に残る美しい景色でした。

旧宿間村(亀ノ甲)から長浜港み向けて龍馬は、この川を舟でいきました。

旧宿間村(亀ノ甲)から長浜港み向けて龍馬は、この川を舟でいきました。

旧宿間村(亀ノ甲)から長浜港み向けて龍馬は、この川を舟でいきました。

旧宿間村(亀ノ甲)から長浜港み向けて龍馬は、この川を舟でいきました。

臥龍の渕と臥龍山荘。

臥龍の渕と臥龍山荘。

臥龍の渕と臥龍山荘。

臥龍の渕と臥龍山荘。

臥龍の渕。

臥龍の渕。

志保町界隈

続いて、龍馬が昼食をとったであろう志保町界隈へ。現在でも江戸・明治の風情が残る街並みが人気の観光地であり、NHK連続テレビ小説の第6作として昭和41年(1966年)4月から昭和42年4月まで放送された「おはなはん」のロケ地となったことから「おはなはん通り」といわれています。

「おはなはん」は林健一が書いた「おはなはん一代記」を原作とし、臥龍山荘が建てられた明治30年代が舞台の物語。主役の樫山文枝さんはこのテレビが出世作となりました。樫山文枝さんといえば個人的には『男はつらいよ 葛飾立志篇』のマドンナ役が印象に残っています。

当時の関東地区平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%とありますから、いまでは想像できないくらいの人気作であったことがうかがえます。自分の時代でいうと「おしん」のような感じでしょうか。ちなみに、テレビドラマ放映中の昭和41年には山田洋次監督による同名映画も公開されました。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

龍馬が舟を停め、昼食をとったという志保町界隈の様子。

大洲城

大津街道を北へ向かうと、大洲城がみえてきます。江戸時代から残る一部の建物は国の重要文化財に指定されており、平成16年(2004年)市民の寄付により天守が再建されました。

この地に最初に城を築いたのは鎌倉時代末期の元徳3年(1331年)、守護となった宇都宮豊房といわれ、その後、長宗我部元親、小早川隆景(豊臣秀吉)、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治と主が変わり、江戸初期の元和3年(1617年)に豊臣秀吉の家臣である加藤光泰の次男、加藤貞泰が大洲藩主として入城し明治維新まで代々加藤家が藩主を努めました。

大洲城は肱川沿いに建てられており、中洲におりて眺めると肱川と大洲城、背後の山々は絵のようにきれい。旅の始めに訪れた高知城は雄々しく、こちらは、絹のような美しさといった風情です。

あいにくの天気でしたが、霞がかかったような大洲城はとてもきれいでした。

あいにくの天気でしたが、霞がかかったような大洲城はとてもきれいでした。

江湖、冨谷金兵衛邸

大洲城と城下の景勝に癒され、心地よくアクセルを踏み伊予長浜港へと走ります。龍馬が川舟をおりた江湖、宿泊した冨谷金兵衛邸があり、長州へ向けて旅だった港です。

肱川河口の江湖は、護岸工事によりコンクリート化されていますが、船溜まりを残しており当時を偲ぶことができます。すぐ近くには長浜大橋があります。

長浜大橋がみえてきました。

長浜大橋がみえてきました。

龍馬が舟を降りた長浜港近く、肱川河口の江湖という船溜まり。

龍馬が舟を降りた長浜港近く、肱川河口の江湖という船溜まり。

龍馬が舟を降りた長浜港近く、肱川河口の江湖という船溜まり。

龍馬が舟を降りた長浜港近く、肱川河口の江湖という船溜まり。

冨谷金兵衛邸

江湖で川舟をおりた龍馬は、代々紺屋を営む豪商 冨谷金兵衛邸に四国最後の夜を過ごしました。この邸宅は江湖の近くにあり、現在も残され国の有形登録文化財に指定されています。現存する冨谷金兵衛邸の庭先には「吉村虎太郎 坂本龍馬宿泊之地」の石碑が建っていました。

長浜港についた龍馬が下関への船出前に一夜を過ごした冨谷金兵衛邸。

長浜港についた龍馬が下関への船出前に一夜を過ごした冨谷金兵衛邸。

長浜港についた龍馬が下関への船出前に一夜を過ごした冨谷金兵衛邸。

長浜港についた龍馬が下関への船出前に一夜を過ごした冨谷金兵衛邸。

肱川あらし展望公園

旅の終わりはどこにしようか、考えが巡ります。地図をみていると長浜港の背後に肱川あらし展望公園という文字を発見し、ここなら長浜港と瀬戸内海を一望できるに違いないと即決。予讃線 伊予長浜駅前付近から山を上ると、すぐに展望公園に到着。あいにくの曇り空ではありましたが、想像どおりの展望でした。

展望台にあがり、長浜港とその先に広がる瀬戸内海諸島を眺めます。龍馬は、この港から長州へと旅立ち、上関(山口県上関町)、三田尻(同防府市)を経て下関へと向かいました。柔らかく包み込むような瀬戸内海の風は、なんとも魅力的でした。

肱川あらし展望公園からの眺め。龍馬が下関に向けて船出した長浜港、そして瀬戸内海が見渡せます。

肱川あらし展望公園からの眺め。龍馬が下関に向けて船出した長浜港、そして瀬戸内海が見渡せます。

おわり

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