香山寺
目 次
香山寺
こうざんじ
山木兼隆ゆかり寺院
源頼朝挙兵の戦で討たれた山木兼隆が開き、墓所ともなった寺院。
エリアその他
住 所伊豆の国市韮山山木868-1
宗 派臨済宗(建長寺派)
御本尊千手観音菩薩
創 建久寿元年(1154年)、山木兼隆
源頼朝伊豆配流〜挙兵の重要地点
香山寺は久寿元年(1154年)、伊豆国目代の山木(平)兼隆によって建立された臨済宗建長寺派の寺院です。御本尊は千手観音菩薩。山木兼隆屋敷跡といわれている場所は香山寺の向かいの丘にあり、この辺り一帯が屋敷だったとも言われています。山木兼隆は頼朝挙兵により討たれ、墓所も香山寺にあります。
山を背にした静かな場所にあり、古代から中世に変わる治承・寿永の乱における重要な舞台の一つでから、リアルに歴史を感じながら、参拝することができます。周辺には源頼朝挙兵関連の史跡が点在していますから、一日かけてゆっくりまわるのはとても楽しいです。
古代末期〜現在まで数々の苦難を乗り越えて今に至る
治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王は、専横を極める平家追討の令旨(りょうじ、皇太子の命令を伝える文書)を諸国の源氏に発しました。4月27日、伊豆に配流されていた源頼朝の元にも届けられ、清和天皇を父祖に持つ、河内源氏の嫡流、源頼朝は8月17日に平家追討の兵を挙げます。この挙兵の時、最初の敵として討たれたのが伊豆国目代の山木兼隆です。
鎌倉時代中期には頽廃しますが、足利尊氏の祖父である足利家時(1260-1284)が元徳二年(1330年)が七堂伽藍を整備して復興します。元徳二年(1330年)といえば、鎌倉時代の最末期、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げる前年という慌ただしい時代でした。室町時代を経て、戦国乱世には再び荒廃し「塔頭両院を残す有様となった」(香山寺由緒)といいます。
戦国初期には北条早雲が諸堂伽藍を整備し再興、境内2万5,261坪、門外にも多くの寺領が与えられました。領民に慕われたという内政をしいた小田原北条氏三代の時代はきっと寺勢豊かだったでしょう。豊臣秀吉が台頭し天正18年(1590年)に小田原征伐が行われると、この影響で再び頽廃します。慶長2年(1597年)、二度目の朝鮮出兵の頃には韮山城主となった内藤信成が再興します。元禄5年(1692年)、建長寺の指名を受けて末寺となり長い江戸時代を過ごします。江戸末期の嘉永6年(1853年)、近隣の火事に巻き込まれて「堂宇宝物古記録等残らず灰燼に帰せり」と伝わります。
田方郡という名前は残して欲しかった
住所は伊豆の国市韮山山木868-1で、現在も山木の名が残っています。元々は田方郡韮山町韮山山木868-1でした。市町村合併は仕方ないものの、勝手に名前をつけるのは迷惑です。「伊豆の国市」という名前が悪いということではなく、少なくとも天平時代から続く「田方郡」という地名は受け継いで欲しかったです。