願成就院

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願成就院

がんじょうじゅいん

北条執権三代が造った氏寺

北条時政・義時・泰時が造ったかつての大寺院。国宝・運慶五仏は健在です。

願成就院

願成就院

源頼朝挙兵の地、蛭ヶ小島周辺の史跡

源頼朝挙兵の地、蛭ヶ小島周辺の史跡

エリアその他
住 所静岡県伊豆の国市寺家83-1
宗 派真言宗
御本尊阿弥陀如来
創 建文治5年(1189年)、北条時政
公式HPhttps://ganjoujuin.jp/index.html

北条時政が創建、時政の墓所でもあります

源頼朝勢の奥州藤原氏征討の戦勝祈願のために北条時政が文治5年(1189年)に建立した、北条氏の氏寺です。北条時政の館もこのあたりにあり、第2代執権の北条義時の江間小四郎という名も、狩野川を挟んだ反対側にある江間という地名から名付けられたものです。

願成就院

『吾妻鏡』文治5年(1189年)6月6日の項には、北条時政が願成就院を創建した様子が書かれています。要約すると次のような内容です。
「北条時政は奥州征伐の戦勝を祈願するため、伊豆国北条に伽藍の造営を企図した。吉日の今日、事始があり、立柱・上棟・供養が行われた。名前は願成就院という。本尊は阿弥陀三尊、不動・多聞等の仏像も安置された。この地は田方郡内で、南条・北条・上条・中条が境を接する場所であった。この先祖ゆかりの地を選んで、寺院を建立するに及んだ。」

『吾妻鏡』文治5年(1189年)7月18日には、「源頼朝が今回の征伐の祈祷のために伊豆国の北条に伽藍を建立する願を立てた」とあります。これは違う寺院の事なのでしょうか。今度調べてみようと思います。願成就院の記述はこの後も『吾妻鏡』に度々登場しています。執権の氏寺なのですから、当然のことでしょう。

現在の伽藍はそれほど大きいものではありませんが、時の権力者が建立した寺院だけあって、全盛期は実に壮大なものでした。いまは住宅地となっている周辺も全て境内でした。北条時政が大御堂と南塔、第2代執権北条義時が父・時政を供養するために南新御堂、第3代執権北条泰時が北條御堂と北塔といったように伽藍が整備され、大きな池を配した浄土様式の大寺院でした。貞応元年(1222年)には、「定額寺」(官寺)とする宣旨が朝廷より下されています。

願成就院の鎌倉時代全盛期の伽藍配置想定図。願成就院公式HPより。

願成就院の鎌倉時代全盛期の伽藍配置想定図。願成就院公式HPより。

願成就院に関する数回の発掘調査でその遺構が概ね明らかになり、昭和48年(1973年)には、境内を中心に周辺一部地域を含めて「旧願成就院跡」として国指定史跡になっています。

また、境内には初代堀越公方、足利政和の子で、15世紀末に北条早雲に攻められて願成就院で自害したと伝わる、足利茶々丸の墓もあります。

国宝、運慶作五仏

鎌倉時代に執権三代が立てた大伽藍は、15世紀末に北条早雲の堀越御所攻めの兵火により焼失してしまいましたが、創建時に北条時政が運慶に作らせ五仏やその他の寺宝は現在にも引き継がれています。

文治2年(1186年)運慶作の五仏、本尊阿彌陀如来坐像・不動明王立像・矜羯羅童子立像・制吒迦童子立像・毘沙門天立像は平成25年に国宝に指定されています。

日本史の転換地点。歴史のリアル

境内には、源頼朝とともに挙兵し、その後の権力争いを勝ち抜いて初代執権となった北条時政の墓があります。挙兵以前の人生がわからなかったり、兄弟や叔父など上の世代の親類が歴史に登場しないなど、これほどの大きな功績を残した人物としては珍しく、謎に満ちています。いったいどんな人物だったのでしょうか? それを含めて、源頼朝の配流、挙兵、日本の歴史が動いた激動の地点で、歴史のリアルに思いを馳せながら参拝しました。

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