〈流行〉NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
目 次
〈流行〉NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
令和4年(2022年)の大河は、北条義時
令和4年(2022年)のNHK大河ドラマは、「鎌倉殿の13人」。三谷幸喜さんの作で主人公の北条義時を小栗旬さんが演じ、治承・寿永の乱(源平合戦)から鎌倉幕府の権力争いを経て北条義時が最高権力者となるまでを描きます。主人公の北条義時は史上稀な超リアリストであり、今の日本にも必要な優れたリーダー。どのように義時が描かれるのか楽しみです。
今の日本に欲しい、超リアリスト「北条義時」
鎌倉時代が舞台となったNHKの大河ドラマで最も記憶に残っているのは、石坂浩二さんが源頼朝を、岩下志麻さんが北条政子を演じた「草燃える」(昭和54年)です。石坂さんの知的なイメージはしっくりきますが、最も大切な武勇に優れた幼名「鬼武者」そのものの源頼朝、神仏を畏れる真摯な姿は、あまり描かれていなかったように思います。大河ドラマにおける鎌倉関連の作品をまとめてみます。
第4作「源義経」(昭和41年)、源義経(尾上菊之助)
第10作「新・平家物語」(昭和47年)、平清盛(仲代達矢)
第17作「草燃える」(昭和54年)、源頼朝(石坂浩二)
第29作「太平記」(平成3年)、足利尊氏(真田広之)
第40作「北条時宗」(平成13年)、北条時宗(和泉元彌)
第44作「義経」(平成17年)、源義経(滝沢秀明)
第51作「平清盛」(平成24年)、平清盛(松山ケンイチ)
こうして見ると結構あります。そして、今回の主人公は北条義時。源頼朝勢の主要な家臣の一人として、治承・寿永の乱(源平合戦)を生き抜き、北条時政、北条政子を立てながら、畠山重忠、比企能員、三浦義澄、和田義盛らのライバルを駆逐して最終的な勝利者となりました。
義時は日本史上類まれな功績を残した人物であり、鎌倉について調べていると、その凄さに圧倒されます。しかし、一般的には地味であまりエピソードなどは知られていないでしょう。というより、昔から悪者のイメージです。義時はリアリスト・戦略家過ぎるのです。
北条義時という人は、江戸時代から不人気。結果的には主である源将軍家を滅ぼして実権を握り、権謀術数をもって他の有力御家人を次々と葬り、父である北条時政を追放し、さらには、承久の乱で天皇を廃立して三上皇を配流としました。江戸時代はもとより明治〜戦前の教育を受けた方にとっては特に「逆臣」であり、そのイメージはいまでもつきまとっていて、現代でも人気のある人物とはいえません。
それでも筆者は子どもの頃から源頼朝や北条義時が大好き。リアリスト(現実主義者)だからです。結果の見方を変えると、義時は、武家政権を維持し朝廷の君威を重んじました。義時が死んで50年後には、モンゴル帝国が日本に攻めてきます。元寇(文永の役、弘安の役)です。
戦後の曲がった教育を受け「神風で勝った」と教わりましたが、これはウソ。武家政権があったことで、「武威の都、鎌倉」を中心に御家人たちが団結して戦い、世界最大のモンゴル軍を撤退させたのです。モンゴル帝国に負けていたら、天皇陛下を中心とする日本の国体はなくなっていたでしょう。義時が作った執権政治は、史上最大の危機に日本の国体を守ったといえます。そして、我々の生活する今の日本にも北条義時のようなリーダーが必要なのです。
今の日本は、現代のナチス・中国共産党、現代のヒトラー・習近平の侵略を受けている大変な時代。元寇再来です。アメリカは本気で中国共産党と戦うことを決めました。日本は、第2次大戦でヒトラーと組んだ失敗、天安門後に天皇陛下が利用されて現代のナチス・中国共産党を救ってしまった失敗を繰り返してはいけません。そんな時代だからこそ、稀代の鬼武者・源頼朝の大戦略とそれを完成させたリアリスト・北条義時といった感じの逞しいドラマになればよいなと思っています。
鎌倉殿の「13人」とは?
源頼朝が蛭ヶ小島に配流されていた時代から支えていた安達泰盛始め、予想される13人は、源頼朝の死後に構成された「13人の合議制」を構成した人物と思われます。
大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、梶原景時、足立遠元、安達盛長、八田知家、比企能員、北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛、安達泰盛、北条時政、北条泰時
正治元年(1199年)に源頼朝が死去すると、頼家が第2代将軍(鎌倉殿)となりました。しかし、わずか4か月後には頼家に対する批判から、頼家は訴訟の裁断を禁じられ、13人の合議制が始まります。頼家に源頼朝のような稀代のカリスマ性がなかったとしても、歴史に語られるような独りよがりな君主であったかどうかは、定かではありません。それよりも、鎌倉殿と有力御家人たちの権力争いが苛烈であったのではないかと考えるのが自然に思えます。
権力を嫡流で維持した政権、北条、足利、徳川を見ると、最初の3代はかなり優秀な人物でした。
北条時政、義時、泰時
足利尊氏、義詮、義満
徳川家康、秀忠、家光
特に初代、3代目は今でも知られた名君です。そこへいくと源頼朝、頼家、実朝は、頼朝が巨大な存在すぎたのか、2、3代目が見劣りします。北条時政、義時、泰時という切者3代が源頼家、実朝を凌駕したとしても不思議はありません。
時代の雰囲気と13人
前提として、平安末期の平治の乱、治承・寿永の乱から鎌倉幕府初期の時代背景を想像します。この時代は要するに乱世。徳川幕府が安定した時代の江戸の武家を、「武士」のイメージとするとかなり違うのではないでしょか。
主な武器は弓馬。『吾妻鏡』を見ても流鏑馬の競い合いは頻繁ですが、江戸時代劇のような日本刀での御前試合などは、自分の読んだ限り見当たりません。当然鉄砲もありません。平家か源氏か? 誰につくかで明日の命が決まった時代。いざ合戦となれば、至近距離での殺し合いです。
源頼朝は冷淡な貴族的人物という安易な言い様がありますが、絵空事でしょう。至近距離での殺し合いと権力闘争をくぐり抜けて家を維持してきた御家人たちです。源頼朝がただの冷淡な貴族だとしたら、そのような強面たちを従えられるわけがありません。彼ら御家人たちが居並んだ姿は、身震いするような恐ろしい迫力だったでしょう。
源頼朝は『吾妻鏡』にも頼朝は鹿の角を素手で押さえつけ、ある土地には山を越えて強弓を射る伝説が残る、幼名「鬼武者」そのものの人物です。その強面中の強面が、恐ろしい強面の切者たちを従えているのが、「鎌倉殿の13人」であるというのが自分のイメージです。そして、大河ドラマの鎌倉殿である2代目の源頼家にはその器がなかったのでしょう。
鎌倉殿の13人と関連人物の人物像
大江広元(おおえの・ひろもと、1140-1221)
大江広元(おおえの・ひろもと、1140-1221)
史上稀に見る軍師であり、政治家、官僚。後白河法皇と源頼朝の鬼気迫る駆け引きを支え、承久の乱では北条義時に「単騎でもよいから一刻も早く京に攻め上るように」と進言しました。源頼朝のグランドデザインを理解し、実現に尽力した最強のリアリスト。
三善康信(みよし・やすのぶ、1140-1221)
頼朝の乳母の妹を母とする下級貴族。伊豆配流の頼朝に京の情報を月に何度も伝えるなど、配流時代の頼朝を支えた人物です。頼朝が鎌倉入りした元暦元年(1184年)には頼朝により鎌倉に召されて政務を補佐しました。
中原親能(なかはら・ちかよし、1143-1209)
明法道(法律)、明経道(儒学)を司る家系に生まれた文官御家人。源頼朝に信頼され、源頼朝の代官として上洛し、公家たちとの交渉を取り仕切りました。京都守護、政所公事奉行などを歴任。頼朝の次女・三幡の乳父でもあります。
二階堂行政(にかいどう・ゆきまさ、?-?)
公家・高家で御家人ではないものの、政所別当として活躍しました。奥州合戦や頼朝上洛の道中手配や朝廷への報告書を取り仕切ったり、万事実務に長けた人物でした。鎌倉幕府の成立期を支えた実務のプロフェッショナルというイメージです。
梶原景時(かじわら・かげとき、1140?-1200)
源義経と対立したことで悪名高い人物ですが、いわゆる判官贔屓はあまりに安易で苦手です。石橋山の合戦に敗れ、神奈川県湯河原町のししどの窟に隠れていた頼朝を敵軍の将として発見したものの、頼朝を助けます。以後、「源頼朝、一ノ郎党」として活躍しました。戦での戦功はもとより、実務能力、事務能力の高い人物でした。乱世が落ち着いてくると、個性的過ぎたのか、御家人達の批判を買って失脚しました。
足立遠元(あだち・とおもと、?-?)
武蔵国足立郡(現在の東京都足立区から埼玉県北足立郡あたり)の豪族。平治の乱(1160)で源義朝・頼朝に従い、源義平の配下として戦いました。源頼朝が挙兵し武蔵国入りした際には、武蔵武士として最初に迎え、以後、多くの合戦で活躍しました。生没年は不明ですが、十三人の合議制が始まった正治元年(1199年)にはすでに65歳は超えていたと思われ、宿老という感じであったでしょう。
安達盛長(あだち・もりなが、1135-1200)
源頼朝の乳母である比企尼の長女・丹後内侍を妻としたことから、伊豆配流時代から源頼朝を支えました。足立遠元の年下の叔父にあたります。源頼朝のグランドデザインの良き理解者であったのでしょう、生涯官職にはつきませんでした。義経とは随分違いますね。甘縄にあった盛長邸には、頼朝が度々立ち寄っています。頼朝が本当に信頼できる人物だったことがわかります。
八田知家(はった・ともいえ、1142-1218)
室町時代に関東八屋形の称号を得た有力大名、常陸国、小田氏の祖。源頼朝の父、源義朝の落胤という言い伝えもあります。保元の乱では源義朝とともに戦い、源頼朝の挙兵に参じて数々の戦功を上げました。奥州合戦では千葉常胤とともに東海道軍の大将軍を務めました。義朝、頼朝、頼家、実朝と4代に渡る源氏の有り様を近くに見た人物。
比企能員(ひき・よしかず、?-1203)
源頼朝の乳母、比企尼の甥(後に養子)。娘の若狭局が源頼家の側室となり嫡子一幡を産んだことから時の人となります。能員の権勢を恐れた北条時政と対立し、比企能員の変により比企一族は滅亡します。一幡もろとも滅亡したその地は妙本寺として今も比企一族を弔います。奥州合戦においては北陸道大将軍、大河兼任の乱では東山道大将軍を務め、源頼朝上洛軍では右近衛大将随兵(常設武官の最高職)の随兵7人に選ばれています。
北条時政(ほうじょう・ときまさ、1138-1215)
伊豆の豪族。源頼朝の妻・政子の父。配流されていた源頼朝の挙兵に従い、治承・寿永の乱を経て、鎌倉幕府第一の権力者にのし上がります。頼朝と関わる以前の事は判然とせず、桓武平氏平直方流という系譜も疑問視する声があります。時政の兄弟とか叔父など年齢が上の親族が歴史に登場しないことなど、これだけの成功者でありながら、謎に包まれた人物です。最後は牧氏事件(1205年)により、北条義時・政子らによって蟄居させられ、失脚しました。
北条義時(ほうじょう・よしとき、1163-1224)
源頼朝の挙兵に従って治承・寿永の乱を戦い、鎌倉幕府成立後は権力争いを制して、父・時政とともに北条執権時代を築いた。最終的には時政を失脚させ、実質的な初代執権となった。以後は、義時の嫡流が得宗家となり執権職を受け継ぎました。「草燃える」では松平健さんが演じ、似合っていると思いました。
源頼朝が描いた「武威の都、鎌倉」を完成させたのが義時です。足利尊氏は建武式目の中でこう言っています。「なかんづく鎌倉郡は、文治、右幕下(源頼朝)はじめて武館を構え、承久、義時朝臣天下を併呑す。武家においては、尤も吉土と謂うべきか。」
徳川家康にも似たリアリスト・戦略家。今の日本にいてほしいです。現代のナチス、シナ共産党と現代のヒトラー・習近平の宣戦布告と侵略を受けている今の日本に、最も必要な人物ではないかという気がします。大江広元さんと二人ならなお完璧です。
三浦義澄(みうら・よしずみ、1127-1200)
三浦為通(1010?-1083)が前九年の役で武功を挙げ源頼義から三浦を与えられ、為通・為継・義継・義明・義澄・義村と6代に渡って相模国三浦を支配した三浦一族の当主。北条一族と違い、いわゆる「源家累代の家臣」です。平治の乱では源頼朝の父・義朝に従い、源頼朝が挙兵すると、父・義明、子・義村らとともに参じました。鎌倉幕府成立への功績は大きく、幕府内では北条氏と並ぶ有力御家人となりました。13人の合議制が始まった頃には70歳を超えた最長老の宿老でした。
和田義盛(わだ・よしもり、1147-1213)
三浦義明の孫。相模国三浦郡和田の里を所領としたことから和田を名乗りました。頼朝挙兵の1180年(治承4年)34歳だった義盛は武勇に優れた弓馬随一の強者といわれ、鎌倉幕府が開かれると初代侍所別当を務めました。黙っていても気が立ち上るような迫力のある武人だったでしょう。
関連人物
十三人の合議制を構成する人物以外にも、頼朝挙兵〜承久の乱までの時期には、たくさんの魅力的な登場人物が考えられます。挙げれば切りがないのですが、絞ってみます。
源頼朝(みなもと・よりとも、1147-1199)
河内源氏の嫡流。治承・寿永の乱において挙兵。平家を滅ぼし、台頭する諸勢力を抑えつつ、後白河法皇との熾烈な駆け引きを乗り切り、鎌倉に幕府を開くことによって「君威の都、京都」「武威の都、鎌倉」という日本の新たな構図を作った稀代の人物。武勇・知略・戦略に優れ、神仏を畏れました。
源義経(みなもと・よしつね、1159-1189)
源頼朝の弟。数々の伝説を持ち、同情から人気の高い人物。兄・頼朝が挙兵すると合流し、一ノ谷、屋島、壇ノ浦を始め平家との合戦において活躍、平家滅亡後の京都の治安維持などにも力を発揮した。しかし、朝廷から頼朝に無断で官位を受けるなど、頼朝の大戦略を理解できていなかったことから対立し、頼朝に反旗を翻し挙兵。義経に従うものはほとんどおらず奥州藤原氏を頼って落ち延びるが、奥州藤原氏当主の藤原泰衡に攻められて自刃した。
源範頼(みなもと・のりより、1150-1193)
源頼朝の腹違いの弟。源頼朝の代官として、源(木曽)義仲追討軍、平家追討軍を率いました。武勇に優れた豪傑というイメージです。1193年に起こった曽我兄弟の仇討ちで頼朝が討たれたとの誤報を受けて、政子を慰めるため「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたことが頼朝に謀反の疑いをうみ、伊豆の修善寺に幽閉されてしまいました。義経人気に押されて知名度が上がりませんが、数々の戦功を挙げた大将軍です。北条氏に警戒されてはめられたとも言われています。
源頼家(みなもと・よりいえ、1182-1204)
源頼朝の嫡子、鎌倉幕府第2代将軍。建久10年(1199年)1月に頼朝が死去すると、同月には18歳で家督を相続した。しかし、家督を相続してわずか3か月後の4月には十三人の合議制がしかれ、実権を奪われていく。1203年8月には病気で危篤状態に陥り、9月には比企能員の変(1203年)で後ろ盾であった有力御家人、比企一族が滅亡し子の一幡をも失う。北条時政討伐を命じるものの誰も従わず、逆に鎌倉殿の地位を追われ、伊豆の修善寺に護送され、1204年7月、北条氏によって殺害されました。享年23歳。
北条執権政治時代に書かれた鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には、権威をふりかざした我儘な振る舞い、後ろ盾である比企一族を重用するといった独断的な人物像が描かれています。実際にはどうだったのでしょうか? 家臣である北条時政らが、「頼家から鎌倉殿の地位を奪って伊豆修善寺に護送」とはっきり書かれています。頼家が真っ当な人物だけれど、追い出したならもう少し工夫して書くような気もします。
平清盛(たいら・の・きよもり、1118-1181)
伊勢平氏の棟梁として生まれ、保元・平治の乱で勝利者となって勢力を拡大、武士初の太政大臣に任じられました。朝廷内で絶大な権力者となり平家一門が政権を掌握しました。後白河法皇の信頼を得て躍進した清盛でしたが、独裁化したあまりの権勢に、1180年(治承4年)源氏による平家打倒の兵が挙がりました。続々と反対勢力が挙兵する中、治承5年(1181年)に死去。享年64歳でした。
後白河法皇(ごしらかわほうおう、1127-1192)
天皇在位は1155年〜1158年。譲位後は34年にわたる院政をしきました。その治世はすさまじい激動の時代でした。平家の台頭から保元の乱(1156年)、平治の乱(1160年)、治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦、1180-1185)という内乱を経て、源頼朝と明治維新まで約680年に渡って続く公武体制を築き上げました。治承・寿永の乱を平定した源頼朝は建久元年(1190年)千余騎の鎌倉勢を率いて上洛、40日間の滞在のうち後白河法皇と8回もの会談を行いました。ここでわだかまりを解き、今後の公武体制を話し合ったのでしょう。恐ろしい大人物2人の話し合いを想像すると、こちらまでゾクッとしてしまいます。
北条政子(1157-1225)
源頼朝の正室。北条時政の長女。「草燃える」では岩下志麻さんが演じました。源実朝の後、執権政治の傀儡として京都から招いた幼き第4代将軍・藤原頼経の後見となったことから、幕政の実権を握って尼将軍といわれ、これが全体的なイメージになっています。
本当にそうでしょうか? 戦場にも赴かない人が並み居る御家人達をまとめられるでしょうか? だとしたら源頼朝の威光はそこまで凄まじかったということでしょう。事実をみると、子どもである頼家、実朝は将軍職を全うできずに変死、嫉妬から側室を遠ざけたことで頼朝の嫡流を減らし、嫁ぎ先である源将軍家を滅ぼしています。
姫の前(ひめのまえ、?-1207)
北条義時の正室。比企朝宗の娘。源頼朝の大倉御所に勤める女官で、かなりの美人だったそうです。義時が惚れて源頼朝が仲を取り持ちました。比企能員の変(1203年)により実家の比企一族が滅亡すると、義時と離別して上洛しました。「草燃える」では坂口良子さんが演じました。とても綺麗で似合っていました。
伊賀の方(いがのかた、?-?)
北条義時の後妻。伊賀守、伊賀朝光の娘。夫・泰時の死後、北条泰時の執権就任に対抗して、子である北条政村の執権就任と娘婿、一条実雅の将軍職就任を画策した伊賀氏の変(1224年)を起こして失敗、伊豆に配流となり、まもなく死去。浅知恵でがめつい演技が似合う人が出演しそうです。
畠山重忠(はたけやま・しげただ、1164-1205)
坂東八平氏の一、秩父氏の一族。飛び抜けた武勇、豊かな教養、仁徳ある人柄で知られた豪傑で「坂東武士の鏡」と称されました。1195年、頼朝は東大寺落成供養のため2度目の上洛をしました。頼朝とともに上洛した畠山重忠は、明恵上人に会うため4月5日、現在の京都市右京区にある栂尾山に向かいました。重忠が近くまで来ると煙塵が舞い上がります。洛中火事かと騒ぐ弟子に上人はこう言ったそうです。「名のある勇士が近づいている。その気が現れているのだ」。重忠に会った弟子たちは上人の言葉に納得したといいます。だから彼らが従った頼朝がただの冷淡な人物だなどという安易な判官贔屓は嫌いです。
そして、極めつけは源頼朝の遺言です。「大名、公家に惑わされず、畠山重忠をもって日本国を鎮護すべし」。
北条泰時(ほうじょう・やすとき、1183-1242)
北条執権政治の黄金時代を築いた名執権。御成敗式目を制定した人物として有名です。源頼朝挙兵の3年後に生まれ、建久5年(1194年)に13歳で元服、源頼家の時代となり十三人の合議制が始まった正治元年(1199年)には16歳となっていました。幼名「金剛」を名乗った幼少時より優れた人物で頼朝にも可愛がられていました。北条義時が「天下を併呑した」承久の乱(1221年)では幕府軍の総大将として上洛し、倒幕軍を破って京へと入りました。この時39歳。貞応3年(1224年)、父・義時の急死により第3代執権となり執権政治の黄金時代を築きました。イメージとしては、幼名「金剛」がこの人を現しているように思えます。
以下の関連人物については、姓名をクリックして下さい。リンクが表示されます。