佐々木経高
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佐々木経高
(ささき つねたか ?-1221)
頼朝の側近、佐々木4兄弟の次男。承久の乱において京都に味方して自害
源頼朝に側近として仕えた佐々木4兄弟の次男。父は佐々木秀義。宇多天皇を祖とする宇多源氏の佐々木氏は近江国を領地としたことから近江源氏とも呼ばれました。平治の乱(1159年)において源義朝が敗れるとこれに従った父秀義はじめ一門も関東へと落ち延びました。
近江源氏佐々木氏の当主であった父秀義は平治の乱以後の源氏不遇、平氏が栄華を極めていくなかにあっても平氏に与することなく、子の定綱、盛綱を伊豆に配流となっていた頼朝の元に仕えさせます。1180年(治承4年)源頼朝の挙兵に際しては定綱、盛綱、高綱、そして経高の4兄弟が加わり、経高は源平合戦の初矢を放つこととなります。
その後、治承・寿永の乱を通じて功をあげ淡路、阿波、土佐3か国の守護となります。源頼朝挙兵以来の主要な人物の一人として活躍しますが、1199年(正治元年)1月に源頼朝が死去すると、守護国の兵を京に集めたことにより後鳥羽上皇の咎めを受け、守護職を解任されます。
挙兵以来の功を訴え赦免を受けた経高でしたが、1221年に承久の乱が起ると後鳥羽上皇側に味方し、子の高重ともども敗死します。