結城朝光
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結城朝光
(ゆうき ともみつ 1168-1254)
畠山重忠と双璧をなす文武両道の名将
小山政光の子。小山朝政の弟であり結城氏の祖。頼朝の側近。弓の達人であり和歌にも通じた文武両道の武将。母が頼朝の乳母寒川尼である縁から挙兵した頼朝に早くから臣従。元服の烏帽子親は頼朝であった。1181年(寿永2年)頼朝の伯父、志田(源)義広が平氏方につき大軍を持って鎌倉へと出陣するとこれを兄弟である小山朝政、宗政らとともに討ち取った。治承・寿永の乱を通じて武勇の誉れ高く多くの功を成す。また、義経に「鎌倉入りならず」との頼朝の口上を伝えたり、畠山重忠が部下の狼藉により窮地に陥ると頼朝を説得してそれを救い、東大寺再建供養に頼朝が参列した際には衆徒の乱闘を鮮やかに捌き絶賛された。頼朝が没した1199年には朝光の「忠臣は二君に仕えず」との言葉を梶原景時に讒言されるも、三浦義村ら有力御家人66人による景時糾弾の訴状を将軍頼家に提出し逆に景時を失脚させた。これらのことは朝光が人望の厚い名将であったことを示しているといわれる。1221年(承久3年)の承久の乱では東山道の将として出陣、北条泰時の執権時代にあっても評定衆の一員となり挙兵以来の宿老として幕政を支えた。晩年は法然に帰依し出家、現在の茨城県結城市に称名寺を建立し信仰に没頭した。宝治合戦(1247年6月5日)において旧知の仲であった三浦義村の子泰村の一族が滅んだことを聞いた朝光は、80歳の老身をおして鎌倉へ向かう。6月30日執権北条時頼に面会し「自分が鎌倉にいれば、泰村を誅罰の恥にはあわせなかった」と涙した。時頼は挙兵以来の古老による無我の涙を愛おしんだという。執権時頼時代の晩年まで生き1254年(建長6年)87歳で死去した。