佐原義連

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佐原義連

(さはら よしつら 生没年不詳)

数々の功を挙げた鎌倉幕府の有力御家人

佐原十郎義連。三浦義明の十男。三浦市の本拠地衣笠の東南にある佐原(現 横須賀市佐原)に住んだことから佐原を名乗りました。父義明ら一族ととともに源頼朝の挙兵に従い、数々の功を挙げ鎌倉幕府の有力御家人となります。

江戸時代に菊池容斎によって描かれた『前賢故実』の佐原義連。

江戸時代に菊池容斎によって描かれた『前賢故実』の佐原義連。

三浦一族は源頼朝から遡ること4代、源頼義(988-1075)以来の源氏累代御家人です。父三浦義明は源頼朝の父義朝に従い保元・平治の乱を戦い、伊豆配流となった頼朝を何度も訪れています。

このようなことから源頼朝が挙兵すると三浦氏は一族を挙げて加わります。即座に頼朝の元に進軍するものの、酒匂川の増水により足止めされている間に頼朝は石橋山の合戦に敗れます。

三浦軍は引き返し、衣笠城に籠ります。この中には義連もいたことでしょう。史実に名高いように、衣笠城は平氏方の大軍に攻められます。佐原義連の父であり三浦氏の当主三浦義明は「源頼朝の元にむかえ」と一族を逃し独り籠城戦に散ったといわれています。

この父の壮絶な最後を見た義連の心中深く勇士の魂が刻まれたことは想像に難くありません。弓馬に優れた勇士として知られた義連は、治承・寿永の乱を通じてその力を発揮します。

平氏追討軍では源義経の搦手軍に加わり、西国に出発する際には「戦場に赴くからには再び故郷に帰ることを思わず、骸を軍門に曝し、名を天下に上げ、後世に残さんと欲す」と自らの姿を仏像に刻んだといいます。この仏像は現在も横須賀市佐原にある義連の廟所、満願寺に残されています。

1184年(寿永3年)、世に名高い一ノ谷の合戦における鵯越では「このような崖は三浦では馬場のようなものだ」といって一番乗りを果たしました。

源頼朝が鎌倉入りすると寝所の警護11人のうちに選ばれていることから、信任の篤さが伺われます。後に六波羅探題として活躍し、人望厚く初代連署となった北条時房元服の際には頼朝の命によりその烏帽子親となっています。

その後1247年(宝治元年)宝治合戦によって三浦一族のほとんどは滅びてしまいますが、義連の子孫盛時は、母である矢部禅尼が最初北条泰時に嫁ぎその後盛時の父であり義連の子盛連に嫁いだ縁により北条方についたことから生き残り、相模三浦氏として三浦氏を再興し、会津にあった庶流はあの戦国大名の蘆名氏となりました。

宝治合戦を生き抜き、三浦、会津に栄えた佐原義連の系譜

1189年(文治5年)の奥州合戦においても活躍した義連は陸奥国会津に所領を与えられます。義連の子、盛連には盛時を始め6人の子があり会津の所領を分割して与えられました。

長男経連は猪苗代の地を与えられ猪苗代氏となり、次男広盛は会津盆地の中心湯川村北田を得て北田氏、三男盛義は河東町藤倉を得て藤倉氏、四男光盛は黒川(現 会津市若松)と相模の国蘆名郷を得て蘆名氏となりました。五男盛時は会津の北端を、六男時連は新宮荘(現 喜多方市)を得て新宮氏となりました。以後、数々の紛争を経て、16世紀になると蘆名光盛を祖とする蘆名氏が会津守護として台頭し、戦国大名蘆名氏となっていきます。

佐原盛連の五男盛時は、宝治合戦を生き延び三浦介となり三浦宗家の家督を受け継ぎますが、往時の三浦一族の地位を得ることはできませんでした。

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