奥州平泉へと逃亡する義経が隠れた場所
越後国の最古刹、国上寺は燕市にあります。越後国を開拓した伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)をお祀りする彌彦神社とは直線距離で約8km程の場所にあり、この辺りから越後が始まったことがわかります。一般には良寛ゆかりの寺、上杉謙信の祈願所として知られています。
国上寺、東山門
国上寺
国上寺、方丈
山全体が見どころといった感じで、伽藍のある山と谷を挟んで向かい側にも展望公園、そして国上山への登山道などがあります。かつては10万石、千人の修行僧がいたといいますから、この山全部が修行の場だったのでしょう。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)
国上寺、大師堂。弘法大師像が安置されています。棟札には徳川幕府第6代将軍、徳川家宣の名があります。
国上寺、雷井戸。
「孝謙天皇の時代、国上寺に宝塔を建立すると雷神がその都度壊してしまう。それを越知山におられた泰澄大師が国上の山に登り、宝刀を持って雷神をこらしめられました。また、国上寺には閼伽井竜王水という霊水があり、この事は元亨釈書に詳しく記載されております。また、泰澄自作といわれる像や臥行者・浄定行者の像、役行者前鬼後鬼の像は本堂真裏に安置しております。※雷井戸の由来は「今昔物語」にも掲載されております。」(境内案内板より)
越後の最古刹ですから、源頼朝始め、御家人達との関わりがあったことも想像できますが、国上寺と鎌倉の関わりとして有名なのは源義経です。
源頼朝の方針に背いた義経は、文治3年(1187年)奈良の吉野山から奥州平泉へと逃亡します。その途中、国上寺の本堂に身を隠しました。しかし、密告され義経一行は弥彦へと向かいました。その際、義経自作の大黒天木像が奉納されたと伝わります。木像には「治承 庚子年 正月朔日 源義経 華押」と刻まれているそうです。
国上寺、六角堂。源義経自作の大黒天を祀ります。
国上寺、六角堂。源義経自作の大黒天を祀ります。
もう一つ、鎌倉との直接の繋がりが国上寺にはあります。建久4年(1193年)富士の巻狩りで曽我十郎・五郎兄弟が父の敵である工藤祐経を討った「曽我兄弟の仇討ち」は日本三大仇討の一つに数えられています。境内の説明板には次のように詳しく書かれています。
十郎はその場で討死し、五郎は捕らえられて後に斬首となりますが、二人にはもう一人の弟・曽我禅司房がおり、国上寺で出家・修行していました。工藤祐経の妻子が禅司房を召し出すよう源頼朝に訴えたため、鎌倉へと連行されます。斬首になるとの風聞を知った禅司房は鎌倉甘縄で読経念仏の末、自ら命を絶ったそうです。18歳でした。
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』、建久4年(1193年)7月2日の項には、次のような記述があります。また、『曽我物語』にも同様の記述があります。
「平賀義信が養子の僧を召して鎌倉に参着した。この僧は曽我十郎祐成の弟である。越後国・久我窮山にいたので、参上がのびていたという。今日梟首されると聞いて、甘縄の辺りで念仏読経の後、自殺したという。源頼朝は大いに悔やみ、嘆いた。もとより死罪にする気はなく、兄に同意していたのかどうか、尋問するために召したものだった。」
行基菩薩作の阿弥陀如来
国上寺の創建は和銅2年(709年)、越後一宮である彌彦神社の託宣により建立されました。御本尊の阿弥陀如来はについては、公式HPにこう説明があります。
「縁起等によれば、行基菩薩の御作婆羅門僧正の御開眼にして、聖武天皇の御后光明皇后により賜った霊仏であると伝えられています。現在は、子年(12年に1度)の開帳としています。」
凄いです。霊験あらたかな仏様です。行基菩薩の作と伝わる仏像は鎌倉にもいくつかあり、その行動範囲と日本仏教における革新者として影響力の大きさを感じます。いつもより深く、頭を垂れさせて頂きました。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)。
第3代天台座主、慈覚大師(円仁、794-864)も国上寺に滞在したと言われています。慈覚大師は、最澄や空海らとともに入唐した入唐八家の一人。松島の瑞巌寺、山形の立石寺(山寺)、東京浅草の浅草寺など、東北、関東に多くの寺を開山・再興したと伝わります。国上寺には院宣祭り(現在は休止)、僧兵文化などが慈覚大師により伝えられたといいます。
戦国時代には上杉謙信が厚く崇敬したことから隆盛を極めました。「祈願所として十万石を拝領し、常時千人以上の修行僧がいた」といいますから、その隆盛ぶりは凄まじいものであったでしょう。
イケメン偉人空想絵巻
本堂(阿弥陀堂)には、国上寺ゆかりの偉人、上杉謙信、源義経、弁慶、良寛、酒呑童子の5人を描いた絵が側面に描かれています。描いたのは伝統的な日本がの技法を使ったイケメン像で人気の木村了子さん。設置には「不適切」とする市の教育委員会と一悶着あったそうです。自分も最初は驚きましたが、よく眺めていると、不思議と馴染んで面白くなってきました。それぞれ絵巻の物語は写真のキャプションに記します。いずれも木村了子さんによるものです。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。東の面「龍乗遊戯之絵巻」
「中国の五行思想では龍(厳密には青龍)は東を意味し、中国風水では家の東に龍を飾ると運気が上がるとされています。国上寺の永遠の繁栄を祈りつつ、龍に乗って遊ぶ偉人たちを空想して描きました。まだ子どもの酒呑童子は大股を開いて大はしゃぎ。同じく弁慶は、はしゃぐ酒呑童子を落ちないように支えています。一方、年齢を重ねている良寛はは泰然自若、謙信と義経はそれぞれが一流の武将、龍の上だろうが互いの剣を交えずにいられません。と、偉人たちそれぞれの性格が垣間見えるようにしています」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。西の面「五鈷杵掛けの松 名手笛奏之絵巻」
「現在は枯れてしまっている伝説の「五鈷杵掛けの松」を生き生きと復活させ、国上寺を能舞台に見立てて描きたいという思いがありました。巨木は古くより日本絵画の定番のモチーフであり、由緒ある五鈷杵掛けの松に腰掛けて、まったり憩う弁慶と謙信を描きました。上杉謙信と源義経はともに笛の名手であったと言われています。ある日、謙信は病に倒れた恋人を想い、義経は愛妾静御前を想い、それぞれ笛を奏でました。しかし、主君である義経を、弁慶はおいそれと肩を抱いて慰めることはできません。そこで、謙信の肩を抱き、やさしく慰めてあげたのでは、と空想しました。」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。北の面「露天風呂湯浴之絵巻」
「新潟には名湯も多く、現実でも5人の偉人たちは温泉に浸かったのではないかと思います。いろいろな思いを抱える彼らのリラクゼーションは全員で露天風呂に浸かることだったのでは、と空想してみました。建物裏である北の方角には、秘密の温泉がある、と想定しています。」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。北の面「露天風呂湯浴之絵巻」
「新潟には名湯も多く、現実でも5人の偉人たちは温泉に浸かったのではないかと思います。いろいろな思いを抱える彼らのリラクゼーションは全員で露天風呂に浸かることだったのでは、と空想してみました。建物裏である北の方角には、秘密の温泉がある、と想定しています。」(木村了子)
子供と遊ぶ良寛像をみて、気持ちが整う
江戸時代になると、良寛和尚が国上寺内の草案(五合庵)に定住しました。文化元年(1804年)48歳の時から、61歳までを過ごしました。生涯、自らの寺を持たず、托鉢により仏の道を歩かれた良寛和尚とといえば、曹洞宗の僧侶であるとともに、歌人、書家としても有名です。また、子どもたちと遊ぶ姿から親しみ深いお人柄で知られます。
国上寺、良寛和尚の五合庵。
国上寺近く(境内?)の眺望公園には子どもたちと手まりに興じる良寛和尚の銅像があり、「この子らと 手鞠付きつつ遊ぶ春 日はくれずともよし」という有名な歌が刻まれています。5月の比較的天気の良い日に訪れたため、心地よい春の陽射しと山の空気が相まって、銅像と歌を穏やかな心持ちでじっと眺めていました。とても良い一日になりました。
国上寺、展望公園へと向かう吊橋。
国上寺、展望公園。
国上寺、展望公園。晴れていれば、三条、長岡の市街、八海山、巻磯山、谷川連邦などを見渡すことができます。
国上寺、展望公園。
国上寺、良寛像。
国上寺フォトギャラリー
燕市街から国上寺に向かいます。
燕市街から国上寺に向かいます。
燕市街から国上寺に向かいます。
燕市街から国上寺に向かいます。
国上寺、駐車場。
国上寺、案内図。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)
国上寺、六角堂。源義経自作の大黒天を祀ります。
国上寺、六角堂。源義経自作の大黒天を祀ります。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)と大師堂。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。北の面「露天風呂湯浴之絵巻」 「新潟には名湯も多く、現実でも5人の偉人たちは温泉に浸かったのではないかと思います。いろいろな思いを抱える彼らのリラクゼーションは全員で露天風呂に浸かることだったのでは、と空想してみました。建物裏である北の方角には、秘密の温泉がある、と想定しています。」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。北の面「露天風呂湯浴之絵巻」 「新潟には名湯も多く、現実でも5人の偉人たちは温泉に浸かったのではないかと思います。いろいろな思いを抱える彼らのリラクゼーションは全員で露天風呂に浸かることだったのでは、と空想してみました。建物裏である北の方角には、秘密の温泉がある、と想定しています。」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。西の面「五鈷杵掛けの松 名手笛奏之絵巻」 「現在は枯れてしまっている伝説の「五鈷杵掛けの松」を生き生きと復活させ、国上寺を能舞台に見立てて描きたいという思いがありました。巨木は古くより日本絵画の定番のモチーフであり、由緒ある五鈷杵掛けの松に腰掛けて、まったり憩う弁慶と謙信を描きました。上杉謙信と源義経はともに笛の名手であったと言われています。ある日、謙信は病に倒れた恋人を想い、義経は愛妾静御前を想い、それぞれ笛を奏でました。しかし、主君である義経を、弁慶はおいそれと肩を抱いて慰めることはできません。そこで、謙信の肩を抱き、やさしく慰めてあげたのでは、と空想しました。」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。東の面「龍乗遊戯之絵巻」 「中国の五行思想では龍(厳密には青龍)は東を意味し、中国風水では家の東に龍を飾ると運気が上がるとされています。国上寺の永遠の繁栄を祈りつつ、龍に乗って遊ぶ偉人たちを空想して描きました。まだ子どもの酒呑童子は大股を開いて大はしゃぎ。同じく弁慶は、はしゃぐ酒呑童子を落ちないように支えています。一方、年齢を重ねている良寛はは泰然自若、謙信と義経はそれぞれが一流の武将、龍の上だろうが互いの剣を交えずにいられません。と、偉人たちそれぞれの性格が垣間見えるようにしています」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)の絵巻。南の面「御仏偉人群降臨之絵巻」 「すべてのはじまりとなる絵巻。国上寺にお祀りされているのが阿弥陀如来様。したがってその脇侍となる勢至菩薩様(向かって左)、観音菩薩様(向かって右)に導かれ、時を超えて国上寺に降臨した5人の偉人たち。というはじまりの瞬間を国上寺の正面玄関口に描こうと想いました。」(木村了子)
国上寺、本堂(阿弥陀堂)。
国上寺山頂への登山口。
国上寺、弘法大師「五鈷掛の松」。弘法大師がシナから帰国の途中、三鈷と五鈷を投げると、三鈷は高野山の松に掛かり、五鈷がこの松に掛かり、真言道場となりました。
国上寺、大師堂。弘法大師像が安置されています。棟札には徳川幕府第6代将軍、徳川家宣の名があります。
国上寺、本堂(阿弥陀堂)。
国上寺、雷井戸。 「孝謙天皇の時代、国上寺に宝塔を建立すると雷神がその都度壊してしまう。それを越知山におられた泰澄大師が国上の山に登り、宝刀を持って雷神をこらしめられました。また、国上寺には閼伽井竜王水という霊水があり、この事は元亨釈書に詳しく記載されております。また、泰澄自作といわれる像や臥行者・浄定行者の像、役行者前鬼後鬼の像は本堂真裏に安置しております。※雷井戸の由来は「今昔物語」にも掲載されております。」(境内案内板より)
国上寺、西山門。
国上寺、参道。西山門から五合庵へと向かいます。
国上寺、香児山(かごやま)。弥彦神社の神降託の廟所。 「石を畳立たるような此の地は天香児山命伊夜比古の神が鎮座された処です。 天香児山命は、只今の弥彦大明神で、古くは社が此の地にあり、初代・二代が此の地に鎮座されておりましたが、夏になると山が浅く、水が枯れてしまうため現在の弥彦の地に三代目から鎮座されました。世俗に天神、廻輸と申しました。」(境内案内板より)
国上寺、香児山(かごやま)。弥彦神社の神降託の廟所。 「石を畳立たるような此の地は天香児山命伊夜比古の神が鎮座された処です。 天香児山命は、只今の弥彦大明神で、古くは社が此の地にあり、初代・二代が此の地に鎮座されておりましたが、夏になると山が浅く、水が枯れてしまうため現在の弥彦の地に三代目から鎮座されました。世俗に天神、廻輸と申しました。」(境内案内板より)
国上寺、展望公園へと向かう吊橋。
国上寺、良寛和尚の五合庵。
国上寺、良寛和尚の五合庵。
国上寺、展望公園へと向かう吊橋。
国上寺、展望公園。
国上寺、展望公園。晴れていれば、三条、長岡の市街、八海山、巻磯山、谷川連邦などを見渡すことができます。
国上寺、展望公園。
国上寺、良寛像。
国上寺、五合庵。