彌彦神社

目 次

彌彦神社

やひこじんじゃ

源頼朝が三千貫を寄進した、越後一宮

源頼朝や義経、源義家にも篤く敬われました。二千四百年の昔から、越後の国を開拓した天香山命を御祀りしています。

彌彦神社、本殿・拝殿。

彌彦神社、本殿・拝殿。

エリアその他
住 所新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887-2
御祭神伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)御名:天香山命(あまのかごやまのみこと)
創 建孝安天皇元年(前392年)
アクセス弥彦線「弥彦駅」下車、徒歩15分
公式HPhttp://www.yahiko-jinjya.or.jp/

由緒と格式

遠く2400年前に越後国を開拓した、天照大神の曾孫神、天香山命(あまのかごやまのみこと)が弥彦山に葬られたことに始まる、越後国一宮。現在に至るまでその神威は衰えることなく、地元の方々は「おやひこさま」と親しみを込めて呼びます。源頼朝も三千貫の神領を寄進し、源義経は奥州に落ち延びる途中、彌彦神社に参詣したと伝わります。宝物殿には源義家が天喜5年(1057)、奥州征伐の途中に参拝した際に奉納した鞍も展示されています。

神社の由緒と格式については、公式HPより引用させて頂きます。

「彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。」

続いて格式。

「彌彦神社が初めて国史に見えるのは『続日本後紀』巻第二・仁明天皇天長十年(833)七月戊子条に
越後國蒲原郡伊夜比古神 名神に預かる 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり(原漢文)
とあり、同巻十二・承和九年(844)十月壬戌条では従五位下、『日本三代実録』巻第五・清和天皇貞観三年(861)八月三日条には従四位下の神階奉授の記述が見えます。また、八世紀頃の成立とされる我が国最古の歌集『万葉集』巻十六には
いやひこ おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる
いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服(かわころも)着て 角つきながら
と、伊夜日子大神様の神々しさを詠った二首が納められており、延喜五年(905)奏進の『延喜式』巻十では越後国で唯一名神大社と記載され、また越後の一宮として朝廷から篤い尊崇を受けました。
このように八~九世紀頃には、遠く離れた都にも彌彦神社は顕著なる御神威ある神社として知られていたことが窺えます。」

2400年という悠久に圧倒される

弥彦神社は、新潟県の330kmに及ぶ海岸線の中程、佐渡の対面あたりを少し内陸に入った弥彦山にあります。燕市に隣接する「西蒲原郡弥彦村」にあります。平成18年の市町村合併の際、燕市と西蒲原郡吉田町、同郡分水町の3市町は合併しましたが、西蒲原郡弥彦村は合併しませんでした。

彌彦神社

彌彦神社

彌彦神社、随神門に向かう参道。

彌彦神社、随神門に向かう参道。

地元の友人によれば、「弥彦村は彌彦神社と弥彦競輪場があるから、金銭的に充足しているのでは?」とのこと。確かに神社に隣接して競輪場があります。お金を生み出して浄化する、良いバランスに思えました。さすが日本は神話が現実の国です。同時に新潟県人に感じていた逞しさを再確認したようでした。

数多く参拝してきた神社仏閣の中でも彌彦神社は神々しさと風格を感じさせてくれる神社です。一の鳥居をくぐって表参道を歩き、手水舎で手を清めたら、二の鳥居をくぐって随神門に向かいます。境内は広く、越後国一宮らしい風格のある参道。随神門を入るといよいよ本殿・拝殿です。

彌彦神社、随神門。

彌彦神社、随神門。

本殿・拝殿は、弥彦山を背景に神々しく聳えているという感じ。現在の本殿は明治末に焼失した後、大正5年(1915年)に再建されたものです。御本殿は三間社流造向拝付。幣殿・祝詞舎に入母屋造向拝付の拝殿が続きます。背後の弥彦山(標高634m)には伊夜日子大神様と妃神・妻戸大神様の御神廟があり、越後国を見守っています。

彌彦神社、本殿・拝殿。

彌彦神社、本殿・拝殿。

彌彦神社、本殿・拝殿。

彌彦神社、本殿・拝殿。

境内には源義家の奉納した鞍が展示されている宝物殿、相撲場、弓道場、鹿苑、貴重な在来種を保護育成する日本鶏舎、桜苑など様々な見どころがあります。少し離れたところに大鳥居、弥彦公園もあります。また、11月に開催される弥彦菊まつりは6,000株の作品が並び、全国的にも有名です。

憧れの空母赤城にちなんで、赤城山に立ち寄り

彌彦神社の参拝・取材に新潟を訪れる途中、赤城山に立ち寄りました。大日本帝国海軍の空母「赤城」は子供の頃の憧れだったこともあって、名前の由来となった赤城山に向かいました。調べてみると上の方に自由に野営していい場所があるとわかり、プロモンテのVL24chokai(鳥海山に由来)を持っていきました。

大沼湖畔。プロモンテVL-24と。

大沼湖畔。プロモンテVL-24と。

ちなみに「鳥海」は帝国海軍の重巡洋艦。名前のかっこよさが購入に最後の決め手になりました。最近のVLシリーズにはこの和名がついていないのが残念。赤城や榛名なんてつけてくれれば次も買いたいです。

大沼湖畔。プロモンテVL-24と。

大沼湖畔。プロモンテVL-24と。

野営場は標高1,827mある赤城山の1,300m付近、大沼に面してあります。近くには延喜式にも記された赤城神社や、小尾瀬ともいわれる覚満淵があり、自然の豊かさを感じられるところです。午後2時くらいに到着、湖畔にテントを張り、近くの山に切り捨ててあった木を拾って薪を作って、夜に備えました。標高が高く5月でも夜は冷えますから致し方なくやりました。

この時いつも以上に面倒に感じたのか、この後、薪を作ったり手配する手間と焚火から解放されたくて、ガスやUSB関連の携行しやすい暖房設備を整えることになります。

赤城大沼、湖畔の道。

赤城大沼、湖畔の道。

夕方になり、昼間の暑いくらいの日差しが衰えて薄暮の時間。標高1,300mの湖畔は空気といい景色といい最高です。その後は闇夜の深さを堪能、鍋をつつきながらゆっくり過ごしました。そして朝がまた抜群です。爽やかとはこういうことを言うのかと独り言を呟いてしまいました。

ベルモントのチタンクッカーとゴートレンジのチタンマグ。湯沸かし、鍋、テフロンフライパン、お椀とほぼ全ての機能を満たしてくれます。ちょっと加工して、チタンマグの中にイワタニのジュニアコンパクトバーナーを入れて、これ全てスタッキングできます。隙間にはお茶の粉なんかも入れられます。

ベルモントのチタンクッカーとゴートレンジのチタンマグ。湯沸かし、鍋、テフロンフライパン、お椀とほぼ全ての機能を満たしてくれます。ちょっと加工して、チタンマグの中にイワタニのジュニアコンパクトバーナーを入れて、これ全てスタッキングできます。隙間にはお茶の粉なんかも入れられます。

朝食を済ませてこれから向かう新潟の友人に連絡をとり15:00頃集合に決定。赤城神社に参拝し、湖畔を散歩してから昼ごはん、撤収。下山して新潟に向かいました。途中、雄大な榛名山も眺めることができて満足でした。さすが空母「赤城」。次回は戦艦「榛名」の榛名山も訪れたいと思いました。それから、一日も早く正常な姿の日本軍に戻って日本海軍空母「赤城」復活して欲しい。

赤城神社。

赤城神社。

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