2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 足利義兼 足利義兼は源義家の孫、足利義康の子。母は藤原季範の養女(実の孫)であり、季範の娘を母に持つ頼朝とは父母ともに近い血統を持つ。頼朝挙兵にもいち早く参じ、1181年(治承5年)には北条政子の妹時子と結婚した。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 八田知家 八田知家は源義朝の10男とも宇都宮宗綱の4男ともいわれる。保元の乱において義朝とともに戦い、頼朝挙兵にも当初から参じた。平氏追討軍に従軍し、奥州合戦では千葉常胤とともに東海道軍の大将軍を務めている。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 一条能保 一条能保は頼朝の妹坊門姫の夫で公卿。坊門姫は頼朝と同じく源義朝を父、由良御前を母とする唯一存命の兄弟姉妹であった。木曽義仲が京都を席巻すると圧迫を恐れて鎌倉に滞在。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 大内惟義 大内惟義は平賀義信の長男。信濃国佐久郡平賀郷(現 長野県佐久市)を本拠としており治承・寿永の乱の初期においては独自に平氏打倒の行動をとり木曾義仲や甲斐源氏と共に戦っていたと思われる。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 平賀義信 平賀義信は源義光の4男盛義の子。武蔵守。源氏の重鎮として活躍した。信濃国佐久郡平賀郷(現 長野県佐久市)を本拠とし、平治の乱には源義朝とともに出陣。敗れた義朝、頼朝とともに落ち延びた7人のうちの一人。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 源義経 源義経は源義朝の9男。頼朝の異母弟。父義朝が平治の乱に敗死し鞍馬寺に預けられ後に奥州藤原氏の庇護を受ける。頼朝が挙兵すると馳せ参じ、義仲、平氏追討に活躍する。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 源範頼 源範頼は源義朝の6男。頼朝の異母弟。遠江国蒲御厨(現 静岡県浜松市)に生まれ育ち蒲冠者とも呼ばれた。木曽義仲追討、平氏追討では義経とともに頼朝軍の大将軍として大任を果たす。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 源為朝 源為朝は源為義の8男。頼朝の父義朝の弟。七尺(2m10cm)の巨漢にして眼は切れ上がり、左腕が右腕より4寸(10cm)も長かったという無双の強弓で知られた伝説の武人。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 源実朝 源実朝は河内源氏8代当主。源頼朝の4男。鎌倉幕府第3代将軍。主導権を握った北条氏によって擁立され、1219年(建保7年)頼家の子公暁に討たれた(享年28歳)。これにより河内源氏棟梁の血筋は断絶する。
2013年12月6日 / 最終更新日時 : 2020年12月11日 鎌倉タイム管理人 人物 源頼家 河内源氏7代当主。源頼朝の次男。鎌倉幕府第2代将軍。頼朝が急死したことにより18歳で家督を相続。鎌倉殿となりわずか3か月で北条氏主導による十三人の合議制がひかれ決裁権を奪われ、3年後には重い病となる。頼朝は頼家の乳母夫として、比企能員、平賀義信、梶原景時を選んだ。