横割八幡宮
よこわりはちまんぐう
目 次
源頼朝が富士川合戦の戦勝を祈願
富士川合戦に臨む源頼朝がこの八幡宮に戦勝を祈願して成就、矢と馬を奉納しました。
エリアその他
住 所静岡県富士市横割2-3-35
御祭神応神天皇
創 建不明
アクセスJR「富士駅」下車、徒歩約10分
静岡・富士市の市街地にある、源頼朝ゆかりの神社
横割八幡宮は、静岡県の富士駅から徒歩10分程の市街地にあります。境内は意外に広く、大木が何本もそびえ立っています。子供用の遊具があり、近所の方々に親しまれているようです。
治承4年(1180年)、富士川の合戦で平家軍を迎え討つべく、この辺りに陣を敷いた源頼朝がこの八幡宮に戦勝を祈願したところ、その日の夜にはご存知のとおり武田信義の夜襲に驚いた平家勢は退却、頼朝勢が勝利しました。
富士川合戦に勝利した源頼朝は喜び、上差の矢(うわざしのや:箙(えびら=矢を入れるもの)に差した矢の他に、差し添えた矢)と馬を奉納し、地名を賀嶋と名付けました。
横割八幡宮の由緒
源頼朝ゆかりの八幡宮だった横割八幡宮も年月の推移とともに廃れ、小さな祠があるのみとなっていたようです。元亀3年(1572年)、源頼朝と同じ河内源氏の武田信玄から伊藤正久がこの地を賜り、社殿と神領を寄進しました。富士川の合戦を勝利に導いた武田信義直系の子孫である武田信玄も、きっと先祖ゆかりの神社として大切にしたのではないでしょうか。
その後武田家は没落し、正久は関ケ原の合戦で討死にしますが、正久の子孫が当社を保護したため、当地は飢饉や疫病、火事、津波など災害に遭うこともなく、宝永4年(1707年)の大地震でも安泰だったそうです。これに感謝した住人の水戸藩士伊藤正勝が趣旨を上申し、横割八幡宮は正一位八幡宮となりました。
境内の由緒書が詳しいので、頼朝時代も含めて、引用させていただきます。
「昔平家が蒲原まで攻め寄せたとき、源頼朝はこの地我成島へ陣をとり、八幡宮へ戦勝を祈願したところ、その夜平家は退散した。頼朝は歓喜して、地名をヨロコビの賀島と名付けて書き残され、上差の矢と馬を奉納された。以後賀島を中心に多くの村々が出来る折、社地の横、村割を始めたので、横割村と名付ける。
その後、年月の推移とともに、社殿は破損して野中の小祠となっていた。元亀三年(一五七二)武田信玄からこの地を賜った伊藤八左衛門正久は、この八幡宮の御神徳を尊び、社殿と神領を寄進した。間もなく武田家没落で、正久は浪人となって、神領がなくなり、その後正久も家康の関ヶ原戦に参陣し討死した。それでも正久の子孫が年貢地や小祠を寄進し、毎年九月九日に米之宮神主による祭礼を催してきた。また常には社地に庵住の出家が朝夕の勤行を努めており、よってこの所は昔から当時まで、飢饉、疫病、水難、火難もなく隣郷までの津波にも安泰であった。
これは偏に祭神の御加護と存せられる。特に宝永四年(一七〇七)の大地震で、近郷の家屋が多く壊れ、続く富士山大噴火による被害を蒙った折に、氏子一同この八幡宮に祈誓し、この地は安穏に過ぎて氏子はご神徳に有難く感謝した。
そこで当村住人水戸藩士伊藤十郎兵衛正勝は、この趣旨を吉田御神職へ上申すべく、領主石川四郎の添状も持たせ、宝永四年四月伊藤宇右衛門を吉田家へ遣わした。
吉田家からは、神徳の厚いことを嘉して「正一位八幡宮」の神宣状を賜りて「天下泰平、国土安穏、其所繁栄、万民豊楽之霊神」として御奉礼と宣命も下された。」
「右は宝永六年、伊藤正勝が記述した古文書、富士郡下方庄賀島郷小木の里、横割八幡宮古今由来の伝承による」
源氏が篤く崇敬された八幡神
八幡宮は八幡神を御祭神とする神社で、鎌倉では鶴岡八幡宮が有名です。大分の宇佐神宮、福岡の筥崎宮、鹿児島の鹿児島神宮が日本三大八幡宮といわれます。近年では、筥崎宮に変えて鎌倉の鶴岡八幡宮が入る場合もあるそうです。
八幡神は応神天皇のことを指し、清和源氏、桓武平氏などの武家からは武運の神、弓矢八幡として敬われています。第15代応神天皇の御代は西暦でいうと4世紀後半から5世紀初頭。応神天皇が崩御してしばらく経った欽明天皇32年(西暦571年)、御霊が豊前国宇佐に顕れ八幡神となりました。よって、八幡神の総本社は大分の宇佐神宮です。
源頼朝から数えて3代前の河内源氏の棟梁、「驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。」と言われた源義家(1039-1106)は石清水八幡宮で元服しており、八幡神は特に源氏から篤く崇敬されました。鎌倉の鶴岡八幡宮は石清水八幡宮を勧請したものです。