以仁王

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以仁王

(もちひとおう 1151-1180)

英才の誉れ高い皇子

後白河天皇の第三皇子。平氏討伐の令旨「以仁王の令旨」を全国の源氏に発したことで知られます。邸が三条高倉にあり、三条宮、高倉宮ともいわれました。英才の誉れ高い皇子でありましたが、異母弟の憲仁親王(後の高倉天皇)の生母平滋子に皇位継承は阻止されました。

『国史大図鑑』の以仁王像。

『国史大図鑑』の以仁王像。

1179年(治承3年)平清盛がクーデターにより後白河法皇を幽閉し、以仁王もまた所領を没収されます。翌1180年(治承4年)春4月、いよいよ平氏討伐を決した以仁王は、源氏凋落期に突出した出世を成し遂げていた摂津源氏の源頼政と計らい、平氏追討の令旨を全国の源氏に発し、挙兵を促しました。

以仁王自身も挙兵の準備を進めますが、計画は事前に平氏方に漏れてしまい5月には皇族籍を剥奪され土佐配流が決められます。平氏配下に館を襲撃されますが以仁王は園城寺に逃れ、源頼政と合流します。1180年(治承4年)5月26日、興福寺へ向かう途中、平氏の追討軍に討たれたといわれています。

以仁王自身による平氏打倒は失敗しますが、令旨を受けとった源頼朝木曽義仲によって宿願は果たされることとなります。以仁王の第一子、北陸宮は木曽義仲によって奉じられました。

以仁王が東国(現在の新潟や福島)に落ち延びたという言い伝えが各地に残っていますが、その後の治承・寿永の乱においてその名が現れることはありません。

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