大長寺

(だいちょうじ)

後北条家、徳川家康ゆかりの寺院

大船にある格式高く、風格ある寺院です。後北条、徳川家康の崇敬を受けました。

エリア大船
住 所 鎌倉市岩瀬1464
本 尊阿弥陀如来
開 基北条綱成
開 山感誉存貞
創 建1548年
アクセス「大船駅」よりバス「砂押橋」下車、徒歩3分

“風格ある大長寺境内。

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格式を感じさせる風格

県道21号からほんの少し入ると大長寺の山門がみえてきます。一見して風格を漂わせており、格式あるお寺ならではの凄みのようなものを感じます。それもそのはず、大長寺は、後北条の名将、後北条の北条綱成(1515-1587)が創建し、開山の感誉存貞は増上寺法主も務めています。さらには、徳川家康の崇敬も篤かったといいます。

北条綱成が創建

大長寺の近く、大船駅の北側一帯は里見、徳川、上杉を阻んだ名城として知られる後北条の南関東の拠点、玉縄城があり、北条綱成はその第3代城主でした。地黄八幡の旗印を掲げ北条随一の闘将として恐れられるとともに、外交にも手腕を発揮した知勇兼備の北条綱成は、北条氏の宿老として知られた大道寺政繁の甥であり、出家して浄土宗の僧侶となった感誉存貞を尊崇しており、氏を迎えて大長寺を創建します。

徳川家康とのゆかり

後北条の崇敬を受けた大長寺でしたが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まります。玉縄城は徳川家康により包囲され、大長寺、龍寳寺の住職が時の玉縄城主北条氏勝を説得し、開城させたといいます。この時の第4代大長寺住職、源栄は徳川家(松平家)の菩提寺であった岡崎の大樹寺で修行をした経験があり、その時以来、徳川家康とは大変に親しい仲であり、駄洒落のやりとりをした記録が残っている程であったそうです。

家康から江戸城や駿府城に呼ばれて講釈を行ったり、家康が藤沢宿に滞在した際にも呼ばれて面会に訪れ、徳川家(松平家)の菩提寺である岡崎の大樹寺住職も務めました。1616年(元和4年)に家康が死去した際には駿府に呼ばれ、その遺言を受けたといいます。

こういった関係から当時は大頂寺と名乗っていましたが、家康のすすめにより大長寺と改めたそうです。また、家康の来訪があったために参道や階段は広く造られています。これは、家康の大きな籠を横にしても通れるようにということのようです。歩測してみると幅は11〜12m程ありました。

また、境内手前の宝蔵には家康と父廣忠の位牌が祀られており、扉には葵の紋が示されています。本堂前にはかつて家康公手植えの銀杏もあったそうです。大長寺背後の山には北条綱成夫人など後北条一族の墓と言われる石塔が残っています。他にも北条氏康寄進による倶利伽羅龍の図や北条綱成寄進による銅雲盤など後北条一族寄進による寺宝が数多く残されています。

本堂は1882年(明治15年)に消失し、しばらく時を経て1911年(明治44年)に再建されました。

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