虚子庵址

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虚子庵址

(きょしあんし)

由比ケ浜をこよなく愛した高浜虚子の住居跡

長閑な由比ケ浜、江ノ電の線路沿いに建つ虚子庵址。鎌倉に住んだ最初の文士ともいわれており、東京にある「ホトトギス」発行所へは電車で通ったそうです。

エリア由比ケ浜・材木座
住 所鎌倉市由比ガ浜3-8付近
アクセス江ノ電「由比ケ浜駅」下車、徒歩

虚子庵址。江ノ電線路脇に句碑と案内板が建っています。

虚子庵址。江ノ電線路脇に句碑と案内板が建っています。

神奈川県鎌倉市由比ガ浜3丁目8付近

鎌倉を愛した俳人・小説家、高浜虚子の住居址です。句碑が建てられており「波音の由比ケ濱より初電車」の句が刻まれています。鎌倉駅から歩くと約1.1km、15分ほどです。鎌倉駅裏駅(西口)から御成通りを抜けて大通りに出たら長谷方面に右折し、寸松堂の向かい側にいる細い道を入ります。しばらく歩いて「鎌倉彫わや」さんの左側の細い道を入るとすぐ江ノ電線路の手前に句碑があります。建物は残っていません。

高浜虚子は正岡子規の『ほととぎす』を引き継ぎ、守旧派を代表する俳人となりました。日本を代表する温泉地、愛媛県温泉郡(松山市)に旧藩士の子として生まれたあと、東北大学を中退し、東京根岸の子規庵に居候。母の病気、正岡子規の死を経て、生活一新のために鎌倉に移住しました。暖かな由比ケ浜を愛した虚子は1910年(明治43年)に鎌倉に移ってから1959年(昭和34年)に85歳で亡くなるまで約50年を鎌倉由比ガ浜に過ごしました。

高浜虚子は正岡子規の『ほととぎす』を引き継ぎ、守旧派を代表する俳人となりました。日本を代表する温泉地、愛媛県温泉郡(松山市)に旧藩士の子として生まれたあと、東北大学を中退し、東京根岸の子規庵に居候。母の病気、正岡子規の死を経て、生活一新のために鎌倉に移住しました。暖かな由比ケ浜を愛した虚子は1910年(明治43年)に鎌倉に移ってから1959年(昭和34年)に85歳で亡くなるまで約50年を鎌倉由比ガ浜に過ごしました。

以下、虚子庵址に設置された文学案内板の内容です。

◯虚子庵
高浜虚子の住居は虚子庵とよばれており、ここで句会がしばしば開かれました。高浜年尾は随筆「虚子と家」のなかで次のように記しています。なお文中「原の台」とはこの場所のことです。

父(虚子)は自分の家ということに対して執着の少ない人であった。大体借家住まいで過ぎて居り、鎌倉へ明治43年12月2日に引越して来た時も、小林米阿(帰化英国人)の借家に入ったのであった。そこから三度住み変わったが、結局はじめて入った家が、現在の原の台のあの場所に小林米阿の手で移されたものを、無理に父が買わされたのが、はじめて自分のものとなった家なのであった。

◯高浜虚子(1874-1959)
俳人、小説家。愛媛県生まれ。本名、清。仙台二高中退。中学時代から正岡子規に兄事して文学を志す。明治30年松山で創刊された『ホトトギス』を引きつぎ、東京で編集発行にあたった。40年代には小説を発表、写生文派の小説家として活躍した。大正2年に俳句に復帰、河東碧梧桐の新傾向に反対し、定型と季語を伝統として尊重した。昭和2年には花鳥諷詠を提唱、その主張のもとに多くの俳人を育てた。29年に文化勲章を受賞した。

◯碑文
波音の由比ケ濱より初電車 虚子
虚子庵址
右側面「自明治四十三年 至昭和三十四年 発起 鎌倉文学史話会 星野立子 高木晴子 上野章子 昭和五十七年四月建之」

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