〈巡礼〉日蓮ゆかりの地

鎌倉仏教の巨人、日蓮の足跡を巡る

6つの宗派を生んだ鎌倉仏教の中でも、具体的に鎌倉の地に活躍し多くの足跡を残しているのは日蓮(日蓮宗)と栄西(臨済宗)の二人です。特に日蓮は多くの物語や史跡を鎌倉に残しました。千葉に生まれ、比叡山、三井寺、高野山、東寺などに遊学し、千葉に戻って悟りを開いた日蓮は、布教のため鎌倉へと入ります。以後、数々の法難を乗り越え、約20年間を鎌倉において活動しました(詳しくは「鎌倉と人物」コーナーの「日蓮」記事をご覧ください)。また、各見所の詳細地図は各々の記事をご覧ください。

日蓮辻説法跡の石碑。

日蓮辻説法跡の石碑。

Loading
地図の中心へ
交通状況
自転車で行く
乗換
現在地
Google Mapsルートを検索

鎌倉・葉山

妙本寺
日蓮宗最古の霊跡寺院。祇園山の麓、比企ヶ谷にあり山深く森々とした空気がとても心地よい場所です。日蓮が臨終の際、枕元に掛かっていたといわれる「臨滅時の御本尊」(日蓮宗の宗定本尊)といわれる十界曼荼羅を護持する格式ある寺院です。

妙本寺。

妙本寺。

安国論寺
日蓮があの『立正安国論』を著した場所。鎌倉に入った日蓮が最初に結んだ草庵「松葉ヶ谷草庵」跡といわれている3か所のうちの一つでもあります。とても静かなお寺さんであり、梅、桜、あじさい、山茶花、紅葉の名所です。

安国論寺、御小庵。『立正安国論』を著した御法窟の前に建てられています。

安国論寺、御小庵。『立正安国論』を著した御法窟の前に建てられています。

龍口寺
龍ノ口法難の舞台に建つ日蓮宗の霊跡本山。『立正安国論』を提出した日蓮は幕府や他宗派によって捕らえられ処刑されるべく、龍口寺のある龍ノ口刑場へと引き回されます。すわ処刑という瞬間、江の島の方角より光が飛び来て日蓮を救ったと伝わります。

すぐに仁王門を入りたいところですが、まずは龍ノ口刑場跡から。

すぐに仁王門を入りたいところですが、まずは龍ノ口刑場跡から。

本覚寺
久遠寺から日蓮の遺骨を分骨されたため、東身延とも呼ばれる日蓮宗の由緒寺院。地元では中興の日朝にちなんで「日朝さま」と呼ばれ親しまれています。かつて山門のあたりに夷堂があり、佐渡流罪から戻った日蓮はそこを拠点に説法を行ったといわれます。

本覚寺にある日蓮の遺骨を分骨した御分骨堂。

本覚寺にある日蓮の遺骨を分骨した御分骨堂。

光則寺
かつて光則寺の地には宿屋光則という御家人の屋敷がありました。その屋敷において日蓮は『立正安国論』を幕府に提出しました。また、日蓮六老僧の一人日朗が捕らえられた土牢も現存しています。その後宿屋光則は日蓮信者となり、屋敷を提供、光則寺となりました。

紅葉に包まれた光則寺。

紅葉に包まれた光則寺。

長勝寺
鎌倉に入った日蓮が最初に結んだ草庵「松葉ヶ谷草庵」跡といわれている3か所のうちの一つ。鎌倉時代の武将、石井三郎長勝が日蓮に帰依し本圀寺を創建したことに始まり、貞和元年(1345年)日静によって長勝寺となりました。見事な日蓮像、四天王像があります。

長勝寺

長勝寺

常栄寺(ぼたもち寺)
龍ノ口法難において、幕府の役人や敵対宗派の人々に捕らえられ龍ノ口刑場に引き回される日蓮に対し、常栄寺の地にあった日蓮信者、桟敷の尼が最後の供養にとぼたもちを差し出しました。日蓮を救った一人の尼の信心として信仰され、尼の屋敷が常栄寺となっています。

常栄寺境内。

常栄寺境内。

妙法寺
鎌倉に入った日蓮が最初に結んだ草庵「松葉ヶ谷草庵」跡といわれている3か所のうちの一。護良親王の子、日叡が中興開山し諸堂を創建し、江戸時代に入ると第11代将軍徳川家斉も度々参拝、徳川御三家、肥後細川家の庇護を受けた格式ある寺院です。

妙法寺、苔の石段。

妙法寺、苔の石段。

霊光寺
日蓮雨乞いの池を管理する霊光寺。七里ケ浜の長閑な山にあります。明治の末にこの地から日蓮大菩薩雨乞いの地と書かれた石塔が出土したことにより開かれました。鎌倉随一のハナモモが見られます。

霊光寺本堂

霊光寺本堂

法性寺
1260年(文永元年)10月、日蓮は松葉ヶ谷草庵を焼き討ちされます。この時、山王神のおつかいである白猿が日蓮をこの地まで導いたとされています。日蓮六老僧の一人、名僧日朗の墓所でもあります。

法性寺山門。左手には横須賀線の線路が走っています。

法性寺山門。左手には横須賀線の線路が走っています。

日蓮乞水
鎌倉五名水の一。1253年立教開宗した日蓮は布教のため鎌倉へと入ります。千葉からですから、名越を越えてきたのでしょう。その時、喉が渇き地に杖を突き刺すとそこから水が湧き出たという伝説の井戸です。

日蓮乞水

日蓮乞水

化生窟と御硯水
鎌倉に入った日蓮が最初の一夜を過ごしたといわれる洞窟と硯や生活水に使ったという井戸があります。安国論寺と額田記念病院の間の道を進み、駐車場のあたりを左に入ると山の側面にあります。

日蓮 化生窟と御硯水。鎌倉入りした日蓮が最初の一夜を過ごしたと伝わる窟。御硯水と呼ばれる井戸もあります。

日蓮 化生窟と御硯水。鎌倉入りした日蓮が最初の一夜を過ごしたと伝わる窟。御硯水と呼ばれる井戸もあります。

日蓮上人辻説法跡
日蓮は1253年に鎌倉に入り、1274年に身延山に向かうまでの21年間、数々の法難を乗り越えて鎌倉において布教を続けました。鎌倉にはいくつか辻説法跡といわれる場所がありますが、小町大路にあるこの場所がいきやすく著名です。

日蓮上人辻説法跡。いつくつも石碑があります。

日蓮上人辻説法跡。いつくつも石碑があります。

名越切通し
『立正安国論』を提出したことにより松葉ヶ谷草庵において焼き討ちに遭った日蓮は、白猿に導かれ、名越切通しを越えて法性寺の地まで逃げのびたといわれています。名越切通しの法性寺近くの石にはその旨が刻まれています。※地図では松葉ヶ谷焼き討ちの際、日蓮が白猿導かれて逃げ延びた記念の石碑の場所がポイントされています。詳しい出入口は名越切通しの詳細頁を御覧ください。

日蓮聖人が松葉ヶ谷法の草庵を焼き討ちされた際、鎌倉の松葉ヶ谷(現在の鎌倉市大町、安国論寺付近)から法性寺(現在の逗子市久木)まで避難したそうです。それが石に書かれています。

日蓮聖人が松葉ヶ谷法の草庵を焼き討ちされた際、鎌倉の松葉ヶ谷(現在の鎌倉市大町、安国論寺付近)から法性寺(現在の逗子市久木)まで避難したそうです。それが石に書かれています。

日蓮袈裟掛の松跡
龍ノ口法難において龍ノ口刑場へと引き回される日蓮は、袈裟が血に染まるのは恐れ多いとこの地にあった松の枝にかけたといわれています。現在松はありませんが石碑が建ち史跡として整備されています。

日蓮袈裟掛の松跡。江ノ電「稲村ケ崎役」の側に記念碑があります。

日蓮袈裟掛の松跡。江ノ電「稲村ケ崎役」の側に記念碑があります。

行合橋
龍ノ口法難において日蓮が処刑されようとする瞬間、江の島方面から光が飛び来て、役人が畏れおののき刑が執行不可能となりました。それを幕府に伝える使者と幕府から赦免を伝える使者がこの橋で行き交ったといわれています。

七里ケ浜の海を望む行合橋とそこを流れる行合川。

七里ケ浜の海を望む行合橋とそこを流れる行合川。

日蓮雨乞いの池
1271年、干ばつに苦しんでいた鎌倉幕府、時の執権北条時宗は極楽寺の名僧忍性に雨乞いを命じるものの効果はなく、次に日蓮がこの田辺ヶ池の淵に立ち「南無妙法蓮華経」と唱えると大雨に恵まれたという伝説の地です。

日蓮聖人雨乞霊跡、田辺ヶ池。

日蓮聖人雨乞霊跡、田辺ヶ池。

高祖井戸、高祖坂
一郡一町となった三浦郡葉山町にも、「高祖井戸」「高祖坂」という史跡があります。1253年(建長5年)故郷の安房で立教開宗した日蓮は布教のため鎌倉へと向かいます。海路を経て横須賀米が浜へと上陸、陸路を鎌倉に向かう途中、数日間ここ木古庭に滞在しました。その際に法力により掘り当てた井戸だといわれています。高祖井戸へと至る坂も日蓮が切り開いたとされ、高祖坂といわれれいます。

50mほど進むと高祖井戸がみえてきます。

50mほど進むと高祖井戸がみえてきます。

千葉

誕生寺
日蓮は、貞応元年(1222年)2月16日午前11時〜午後1時、安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市小湊)に生まれました。建治2年(1276年)、日蓮の直弟子である日家により、その場所に誕生寺は建立されました。

誕生寺、仁王門。

誕生寺、仁王門。

清澄寺
日蓮宗が始まった場所です。日蓮の生地、安房国長狭郡東条郷片海(千葉県鴨川市小湊)に近い山中にあります。日蓮が入門・出家し、そして悟りを開いた寺院です。今日の日本にも多大な影響を与え続ける日蓮は、建長5年(1253年)4月28日(現在の5月末頃)の朝、清澄寺の旭が森にて、外房に昇る朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え(立教開宗)しました。

清澄寺、大堂。天和2年(1682年)の建物です。

清澄寺、大堂。天和2年(1682年)の建物です。

天津神明宮
日蓮と源頼朝ゆかりのお宮さんです。日蓮が生まれ育った千葉県鴨川市にあります。日蓮が生まれ育った同市小湊と入門した清澄寺のちょうど通り道にあり、度々参詣したといわれています。日蓮は「辺国なれども、日本国の中心のごとし」と語り、立教開宗後には川向の御曼陀羅(布本尊)を奉納しました。

天津神明宮の三ノ鳥居と御正殿。境内は森々としています。

天津神明宮の三ノ鳥居と御正殿。境内は森々としています。

日蓮ゆかりの地フォトギャラリー

スポンサー広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です