六代御前の墓
目 次
六代御前の墓
ろくだいごぜんのはか
田越川の畔で処刑された平家最後の嫡流
平清盛の曾孫、六代御前(平高清)が処刑された場所にある墳墓です。権勢を極めた平家の最後の嫡流が眠ります。
エリア逗子・葉山
住 所逗子市桜山8丁目2−1−7
拝観時間随時
アクセスJR「逗子駅」下車、徒歩15分。もしくは京急「新逗子駅」下車、徒歩12分
〒249-0005 神奈川県逗子市桜山8丁目2−1−7
小さな墳墓に刻まれた壮大な歴史
六代御前とは、平高清(1173?-1199?)のこと。父は平維盛。平清盛の曾孫にあたります。六代という名は高清の幼名であり、平氏興隆の基盤をつくったとされる平正盛から数えて六代目ということから名付けられました。「正盛」ー「忠盛」ー「清盛」ー「重盛」ー「維盛」ー「高清(六代)」となります。したがって、高清は清盛、重盛、維盛と続いた清盛嫡流最後の一人ということになります。
墓は逗子海岸に近い田越川の側にあります。JR逗子駅や京急新逗子駅から田越川沿いに逗子海岸に向かって歩き、田越橋を過ぎて少しいったところを左に入ると小さな丘があり、これが六代御前の墓です。近くには六代山不動院があり、バス停「六代御前の墓」もあります。
日本を席巻した平家一門、平清盛の嫡流の最後がこの場所であると思うと、逗子海岸を目前に控えた田越川の静かな流れも、より味わい深いものになります。鎌倉幕府の公式記録『吾妻鑑』にも田越川は多古江川として幾度か登場し、源頼朝が多古江川に遊ぶとか、一条能保と散歩したといったような記述があります。
激動の時代を生きた六代御前(平高清)
平高清(六代御前)は、清盛嫡流、平維盛の嫡男として承安3年(1173年)に生まれます。平家物語によれば、寿永2年(1183年)平家都落ちの時、父・維盛は都に慣れた妻子を遺して西国へと落ち延びたといいます。この時、高清10歳。
文治元年(1185年)に平家が滅亡すると、京都に潜伏していた高清も北条時政により捕らえらます。清盛の嫡流ですから、普通に考えれば斬首となるところ、文覚上人の助命嘆願により源頼朝の赦免状を得て文覚上人預かりとなりました。高清の母・建春門院新大納言は、源頼朝に信頼され鎌倉幕府の初代関東申次に任ぜられた公卿の吉田経房と再婚していますから、これも助命に関係しているといわれます。
文治5年(1189年)、文覚上人に伴われ、高尾山洛西西神護寺に入り剃髪、妙覚と名乗ります。建久5年(1194年)には大江広元を通じて源頼朝に謁見、謝恩を述べるとともに出家し異心なきことを伝えました。
その後は僧として修行していましたが、源頼朝の死後、身請人ともいえる文覚上人が正治元年(1199年)三左衛門事件にともない流罪となると、高清も捕まり、「さる人の子なり、さる人の弟子なり、たとひかしらをば剃り給ふとも、心をばよも剃り給はじ」 (『平家物語』)と謀反の疑いをかけられ、ここ田越川の畔で処刑されました。
建久10年(1199年)2月9日、源頼朝という稀代の人物が死去した直後の混乱に巻き込まれた形で、平清盛最後の嫡流は人生を終えました。ちなみに、三左衛門事件の後、配流された文覚は召還されています。
高清は大変聡明な人物であったといいますから、平清盛最後の嫡流ということもあり、深く警戒されたのは仕方ないのかもしれません。墓前の立札には、「村民深く之を憐み遺骸を収めて川の邊に葬り、墳墓を築き常に香華を捧げて供養を怠らず以て現今に至れり。田越川を御最後川と曰ふは之に原(もと)づけり」とありました。六代山不動院では、古来より毎年7月26日に供養の祭礼を執り行っています。