和暦 |
西暦 |
天皇/将軍/執権 |
日付 |
鎌倉の動向 |
文治5年 |
1189年 |
後鳥羽 |
7月16日 |
京都に遣わした飛脚が戻った。泰衝追討の宣旨についてはやはり今年中は思いとどまられるようにとの宣旨が下された。頼朝は鬱憤を抱き、多くの軍勢が集まった今必ず出兵を行うといった。 |
7月17日 |
奥州征伐の審議。軍を三手に分け、東海道を千葉常胤・八田知家、北陸道を比企能員・宇佐美実政、中路より大手軍を頼朝が率い先陣は畠山重忠となった。留守の鎌倉は三善康信が任された。 |
7月18日 |
伊豆山の僧専光房に命じて、御所の後ろの山に自ら仏堂を創建し年来頼朝が本尊としている正観音像を安置するよう、また、奥州征伐のための祈祷も命じた。 |
7月19日 |
頼朝、奥州遠征へと出発。梶原景時の進言により囚人であった城長茂も許され御供に加わった。 |
7月25日 |
頼朝軍は下野国古多橋(現宇都宮市)の駅に到着。宇津宮社に奉幣し祈願した。 |
7月26日 |
古多橋を出発した頼朝軍に、常陸から参じた佐竹秀義が加わった。頼朝と同じ白旗だったため月の出を描いた扇をおくり、それを旗の上につけるよう命じた。 |
7月28日 |
新渡戸(現栃木県那須郡)の駅に到着。軍勢を掌握するため手勢を報告させると、城長茂の郎従は200人を超えており頼朝は驚いたという。 |
7月29日 |
白河関(現福島県白河市)を越える。関明神に奉幣した。 |
8月7日 |
国見の駅(現福島県伊達郡国見町)到着。夜半、頼朝は明朝泰衝の先陣を攻撃すると命じた。畠山重忠はその夜の内に人夫80人を引き連れ堀を塞いだ。頼朝は重忠の思慮は神に通ずると感嘆した。 |
8月8日 |
数千騎を率いて阿津賀志山(現厚樫山)の前に陣取った金剛秀綱に対し頼朝軍は攻撃を仕掛けこれを破った。 |
8月9日 |
夜半、明朝の阿津賀志山を越えて攻め入ることが決められた。夜半になり三浦義村、葛西清重らが夜のうち密かに山を越え奥六郡第一の豪腕、伴藤八らを討ち取った。 |
8月10日 |
頼朝は阿津賀志山を越え木戸口に攻め寄せ国衝の守る砦を撃破、和田義盛、畠山重忠らの追撃により国衝は討ち取られた。根無藤と四方坂の中間でも激戦があったが頼朝軍が勝利した。 |
8月11日 |
頼朝は船迫宿(現宮城県柴田郡柴田町船迫)に逗留した。 |
8月12日 |
9日の阿津賀志山の合戦において若年ながら河村千鶴丸の活躍を耳にした頼朝は御前において急遽元服することとなり、河村四郎秀清と名乗った。 |
8月13日 |
北陸道軍の比企能員、宇佐美平次が出羽国に討ち入った。泰衝の郎従である田河行文、秋田三郎らを討ち取った。頼朝は多賀の国府に入って休息した。 |
8月14日 |
泰衝の居所について2つの情報があり、玉造郡(現宮城県)と中山の上の物見岡であった。頼朝は玉造郡へと向かい物見岡には別働隊を派遣した。物見岡にいた形跡があり泰衝はすでに逃亡していた。 |
8月20日 |
頼朝は玉造郡に到着し泰衝の多加波々城を囲んだ。泰衝はすでに逃亡しており残った兵は投降した。頼朝は平泉に向かった。物見岡の別働隊には無理をせずそのまま敵を追撃するよう命じた。 |
8月21日 |
頼朝は泰衝を追って平泉に向かった。各地で泰衝方が防戦したが頼朝軍はこれを撃破した。泰衝は逃亡前には火を放っており貴重な品々は焼失した。 |
8月22日 |
頼朝、奥州藤原氏の本拠地平泉を陥落させる。泰衝は館や蔵などに火を放って逃亡したため頼朝は泰衝を追って北上。 |
8月23日 |
頼朝は京都に飛脚を遣わし、平泉に入りさらに泰衝を追走している旨報告した。 |
9月2日 |
平泉を出た頼朝は泰衝の逃亡先を探索するため厨河に赴いた。源頼義が前九年の駅において安倍貞任を討ち取った場所である。その吉例にならったものだった。 |
9月3日 |
逃げ回る泰衝は数代の郎従である河田次郎を頼って肥内郡贄柵(現秋田県大館市)に着いた。ところが河田次郎は裏切り泰衝の首を穫って頼朝の元へと向かった。 |
9月4日 |
頼朝は陣岡の蜂杜に陣を敷いた。北陸道の比企能員・宇佐美実政が出羽国の敵を討ち滅ぼし合流した。軍勢は29万4千騎となったという。 |
9月6日 |
河田次郎が泰衝の首を陣岡の頼朝の元へと持参した。前九年の役において頼義は安倍貞任の首を横山経兼が承った故事に則り、経兼の曽孫時広に命じて同じようにさせた。 |
9月7日 |
泰衝の郎従、由利維衝を生け捕った。 |
9月8日 |
朝廷に飛脚をおくり、奥州征伐について消息を伝えた。 |
9月9日 |
一条能保の使者が7月19日付け奥州追討の宣旨(口宣)及び院宣を持参し頼朝のいる陣岡に到着した。 |
9月10日 |
中尊寺の大法師心蓮が頼朝の元を訪れこれまでどおりの庇護を訴え認められた。 |
9月11日 |
頼朝は陣岡を出発した。藤原清衝の時代に勅願円満の祈祷料所とされた寺社は頼朝より今後も相違ないという下文を受けた。 |
9月13日 |
今回の騒乱により混乱した庶民に対し、頼朝は元の住所を安堵するようよくよく伝えたという。また由利維衝は勇敢の誉れがあり御赦免となった。 |
9月14日 |
陸奥、出羽の地図などの行政関連書類が焼失したため、故実に明るい清原実俊と弟の橘藤五実昌を召し出し詳細を問うとほぼ誤りなく記憶しており頼朝も大いに感心し、召し使うことにしたという。 |
9月15日 |
樋爪俊衝と弟の季衝が降伏し厨河に参上。頼朝は老体の俊衝を憐れみ八田知家に預けると俊衝は法華経を読誦する他は一言も発さないという。翌日これを聞いた頼朝は旧領を安堵した。 |
9月17日 |
奥州藤原氏3代が造立した寺社について報告があると、頼朝は寺領は全て寄附し祈祷に励むようにと命じた。 |
9月18日 |
厨河柵において藤原秀衝の四男高衝が降人となった。熊野別当も捕らえ残党もことごとく捕らえ終えた。源頼義による前九年の役の吉例の通りであった。京都に報告の飛脚を送った。 |
9月19日 |
頼朝は厨河柵を発ち、平泉に向かった。 |
9月20日 |
勲功を調べてそれぞれに褒賞が行われた。 |
9月21日 |
伊沢郡、鎮守府において八幡宮に奉幣した。坂上田村麿将軍が勧請した霊廟であった。将軍が用いた弓矢や鞭が今も宝蔵にあるという。頼朝は喜び今後は源氏の御願として神事を行うよう命じた。 |
9月22日 |
陸奥国の御家人のことについては葛西清重が奉行するよう頼朝の命があった。幕府に仕える者は何事も清重を通して事情を伝えるようにとのことだった。 |
9月23日 |
頼朝は平泉において無量光院を参拝した。 |
9月24日 |
頼朝は葛西清重に対して平泉郡内の検非違所を管轄し、濫行を停止し罪科を糾断するようにと命じた。清重の今回の勲功は誠に抜きん出ており、これら重職の他数カ所の領地を拝領した。 |
9月27日 |
頼朝は衣河の遺跡を巡った。安倍頼時の遺跡である。 |
9月28日 |
鎌倉への帰路に着いた。囚人は多く赦免され、残ったものは30数人であった。 |
10月1日 |
多賀の国府において郡郷庄園について国郡に負担をかけたり住民を煩わすことのないよう地頭らに申し付けた。また様々なことは秀衝、泰衝時代の先例にならうようにと命じた。 |
10月17日 |
政子が鶴岡八幡宮と甘縄神明社に参詣した。奥州合戦勝利の御礼としてであった。 |
10月19日 |
頼朝は帰路、下野国の宇都宮社に奉幣した。去る7月25日、奥州征伐成就の際には捕虜一人を神職としますと祈願されたとおり樋爪俊衝法師の一族をその任とした。 |
10月22日 |
祈願成就のため慈光山に米と長絹百疋を衆徒らに送った。 |
10月24日 |
鎌倉に到着。大江広元を召し、藤原泰衝を追討し捕虜をともない鎌倉に帰着した旨の飛脚を中納言藤原経房と一条能保に送った。 |
10月25日 |
鶴岡八幡宮の別当法眼が御所に召された。奥州追討祈願の勲功として砂金などが与えられた。 |
10月28日 |
梶原景時が安芸の大名葉山宗頼の処罰をすすめた。奥州征伐に参じるため鎌倉に向かったが駿河付近においてすでに頼朝進発を聞き帰国したという。所領の没収などが命じられた。 |
11月3日 |
朝廷からの使者。迅速な泰衝征伐を讃え、降人は関東で計らうように、また朝廷からの褒賞について検討するため功のあったものを注申するよう伝えられた。 |
11月7日 |
大江広元が使者として上洛することとなった。頼朝及び御家人への褒賞についてはその名を注申することもあわせて辞退することとなった。 |
11月8日 |
奥州支配のため陸奥国に留まっている葛西清重に対して、今回の合戦や不作などにより住民が苦慮していることに対する救済措置、残る泰衝郎従の捕縛などについて頼朝の指示があった。 |
11月23日 |
大倉観音堂(現杉本寺)が火事により焼失した。別当の浄台房は本尊を救出しようと焔の中に入った。人々はみな命はないものと思ったが、衣がわずかに焦げた程度で仏像を助けだしたという。 |
12月6日 |
朝廷より泰衝征伐の恩賞はやはり行われるべきであると院宣があったが、頼朝は重ねて辞退した。ただし、奥州、羽州の土地支配については来春にも沙汰されるよう返答した。 |
12月9日 |
永福寺造営の事始が行われた。数万の怨霊をなぐさめ、この世の苦しみを救うための建立であった。奥州の大長寿院を模し別称を二階堂とした。 |
12月23日 |
奥州からの飛脚が到着。義経や義仲、秀衝の子息などと名乗るもの達が鎌倉に向けて出陣するなどの噂があるという。頼朝は越後・信濃などの御家人に出陣の用意を命じた。 |
12月24日 |
陸奥国が騒然となっているとの報を受け、工藤行光、由利維平、宮六国平らが奥州に向けて出陣した。 |
12月25日 |
朝廷より伊豆・相模両国を永代にわたり知行するよう命じられ頼朝は了承した。また上洛するよう命があり、翌年上洛すると返事を送った。 |