高浜虚子
目 次
高浜虚子
(たかはまきょし 1874-1959)
1910年(明治43年)から没するまで約50年を鎌倉に過ごす
愛媛県温泉郡(現在の松山市)に旧藩士の子として生まれた高浜虚子は、1888年(明治21年)正岡子規に師事し、1891年(明治24年)虚子の号を得ます。
1894年(明治27年)現在の東北大学教養部を中退し上京。東京都台東区根岸の子規庵に居候します。1897年(明治30年)に結婚、翌明治31年に母の看病のため会社を除籍され生活に困窮するも、1897年に創刊した俳誌『ほととぎす』を引き継ぎ東京に移転。1902年(明治35年)正岡子規が亡くなるとともに俳句の創作を辞めてしまいます。
そして1910年(明治43年)、子供の健康を気遣いつつ生活を一新するため一家で鎌倉に移住。それとともにかつての婚約者、碧梧桐の新傾向俳句と対立する形で守旧派として俳句の創作を再開します。最も早い時期に鎌倉に住んだ文学者として鎌倉文士のはしりといわれています。「波音の由比ヶ濱より初電車」など鎌倉の句も多くあります。
その後1959年(昭和34年)85歳で亡くなるまでの約50年を幾度かの転居を経つつも由比ケ浜に住みました。墓所は寿福寺にあります。東京のほととぎす発行所へは江ノ電と横須賀線を使って通ったそうですから、現在では一般的になった遠距離通勤のはしりともいえるかもしれません。長谷寺、由比ケ浜の虚子庵址に句碑があります。