大山阿夫利神社

目 次

大山阿夫利神社

おおやまあふりじんじゃ

二千二百余年の古、山岳信仰から始まった神の山

源頼朝も崇敬をよせた、石尊大権現。今日も変わらぬ聖地

大山阿夫利神社の下社。約150年前、明治維新直後の神仏分離・廃仏毀釈まで、大山寺の本堂でした。【大山阿夫利神社】

大山阿夫利神社の下社。約150年前、明治維新直後の神仏分離・廃仏毀釈まで、大山寺の本堂でした。【大山阿夫利神社】

エリアその他
住 所神奈川県伊勢原市大山355
御祭神大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)、大雷神(おおいかつちのかみ)、高龗神(たかおかみ)
創 建崇神天皇御代(紀元前97年)
アクセス小田急線「伊勢原駅」北口より、神奈中バス(約25分)にて「大山ケーブル駅」下車。※大山ケーブル山麓駅まで徒歩約15分

大山略図【大山阿夫利神社】

大山略図【大山阿夫利神社】

二千二百余年という悠久

標高1,252メートルの大山にある大山阿夫利神社は古代より山岳信仰の対象として敬われてきました。公式HPなどによれば「今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社」とあります。

式内社とは、延長5年(927年)に編纂された律令の施行細則(格式)である延喜式の神名帳(神社一覧)に記載された神社、および現代におけるその論社(ろんしゃ=同一もしくは後裔と推定される神社)のこと。平たくいえば平安以来の格式ある神社ということになります。

第10代崇神(すじん)天皇の在位は、崇神天皇元年〜68年、崇神天皇の諡号(しごう=主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)は「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」。支配領域を広げ、課税を導入するなど国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられます。

日本書紀をそのまま西暦に換算すると、崇神天皇の御代は紀元前60年頃になり、公表されているとおり二千二百余年の歴史を有することになります。一方、崇神天皇を3世紀〜4世紀初頭にかけて実在したという見方もあり、これに従えば1600年〜1700年の歴史を持つということになります。この原稿では、奈良時代の養老4年(720年)に成立した日本最古の正史である「日本書紀」に従います。

永く石尊大権現として敬われ、約150年前から現在の御祭神に

大山阿夫利神社の御祭神は、大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)、大雷神(おおいかつちのかみ)、高龗神(たかおかみ)です。いずれも伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の神産みによって生まれました。大山祇大神は大いなる山の神、海の神、酒の神。大雷神は、その名の通り雷の神様。高龗神は水の神です。

大山阿夫利神社となったのも、大山祇大神、大雷神、高龗神の三柱が祀られたのも、明治の神仏分離令(明治元年)とそれに伴う廃仏毀釈によるものですから、この形式では約150年の歴史です。現在の下社もそれまでは大山寺の本堂でした。

二千二百余年前の創建から、天平勝宝4年(752年)までは山頂に霊石を祀る山岳信仰の聖地「石尊大権現」でした。天平勝宝4年(752年)に東大寺を開山した奈良時代の名僧、良弁により不動明王を御本尊とする神宮寺、雨降山 大山寺が創建され廃仏毀釈まで続きました。こちらは、約1,260年という長い歴史があります。ちなみに良弁は相模国の柒部氏の出身であり、鎌倉生まれといわれます。

五雲亭 歌川貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」。安政5(1858)年の作です。 神奈川県郷土資料アーカイブより。https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/kyoudo_archives/ooyama/00zenkei/zenkei_202.htm

五雲亭 歌川貞秀「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」。安政5(1858)年の作です。
神奈川県郷土資料アーカイブより。https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/kyoudo_archives/ooyama/00zenkei/zenkei_202.htm

本堂付近のアップ。現在の下社は「本堂 不動堂」とあり、その前に立派な「仁王門」が描かれています。現在、仁王門はありません。廃仏毀釈により破壊されたのでしょう。みたかったです。

本堂付近のアップ。現在の下社は「本堂 不動堂」とあり、その前に立派な「仁王門」が描かれています。現在、仁王門はありません。廃仏毀釈により破壊されたのでしょうか? みたかったです。

源頼朝や北条氏、徳川氏などが厚く崇敬し、江戸時代に多くの庶民が参詣した大山詣は、この神宮寺 大山寺と石尊大権現を中心にした修験道ということになります。江ノ島詣でと一体となった古典落語の演目『大山詣り』でも「大山石尊大権現」という名で登場します。山頂の石尊大権現を目指し、「六根清浄」と唱えながら、参拝者を先導する「先導師」について登り、頂上の本社は夏期のみ入山が許されていたそうです。なお、女人の入山が許されていたのは下社まで。修験道ではほとんどがそうなっているように思います。現在のように、通期で自由に入山できるようになったのは明治以降です。気軽に参拝できるのはありがたい限りですが、そのかわりに、何か大切なものを失っているのではないかという気持ちも拭えません。

下社への階段。【大山阿夫利神社】

下社への階段。【大山阿夫利神社】

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鑑』には、建久3年(1192年)8月9日、源頼朝が政子が産気づいた(実朝)際、相模国の寺社に神馬を献じて誦経を修めています。その時の各寺社は次のとおりです。大山阿夫利神社の近くにある日向薬師も霊山寺として入っています。

福田寺(酒匂)、平等寺(豊田)、範隆寺(平塚)、宗元寺(三浦)、常蘇寺(城所)、王福寺(坂下)、新楽寺(小磯)、高麗寺(大磯)、国分寺(一宮下)、弥勒寺(波多野)、五大寺(八幡、大會の御堂と号す)、寺務寺、観音寺(金目)、大山寺霊山寺(日向)大箱根、惣社(柳田)、一の宮(佐河大明神)、二の宮(河匂大明神)、三の宮(冠大明神)、四の宮(前祖大明神)、八幡宮、天満宮、五頭宮、黒部宮(平塚)、賀茂(柳下)、新日吉(柳田)

巡礼道は三つ

大山阿夫利神社は本社と下社にわかれており、本社は大山の山頂、標高1,252メートルに鎮座します。標高700メートル付近の下社まではケーブルカーで行くことができ、そこから先は自分の足で登るしかありません。

昭和6年(1931年)に開業した大山ケーブル。最新の車両は窓が多く、良い景色です。色も景観を乱さずに調和しています。【大山阿夫利神社】

昭和6年(1931年)に開業した大山ケーブル。最新の車両は窓が多く、良い景色です。外観の配色も景観を乱さずに調和しています。【大山阿夫利神社】

下社から本社に登る道は2本、本社左手からいく(おそらく)本道と、二重の滝、見晴台などを経てやや迂回しながら登る西側の道があります。往路は本道を、帰路は迂回路を選びました。

10時頃に小学生の娘と第2駐車場付近を出発、10時40分に下社参拝、11時頃に本社への巡礼登山道を登り始め、12時40分に本社到着、参拝を済ませてから昼食休憩、午後1時10分頃、来た道ではなく見晴台方面から下山開始、午後3時頃二重滝、3時20分、下社境内の茶店で一服して疲れを癒しました。その後は歩いて大山寺へ。大山寺に参拝し、ケーブル駅へと向かう道で野生の鹿と出会い、麓のケーブル駅に着いたのは午後4時頃。最後に参道の土産物店にて大山駒を求めました。小学生の娘には小さな駒を、家の縁起物として大きな駒をそれぞれ1つずつ。自分の子供の頃と同じだなと懐かしく思いました。

「阿夫利神社駅」。歩けばすぐ下社です。【大山阿夫利神社】

「阿夫利神社駅」。歩けばすぐ下社です。【大山阿夫利神社】


大山阿夫利神社の下社左手から標高1,252mの本社へと向かいます。【大山阿夫利神社】

大山阿夫利神社の下社左手から標高1,252mの本社へと向かいます。【大山阿夫利神社】


頂上の本社参拝者のための御祓所。【大山阿夫利神社】

頂上の本社参拝者のための御祓所。【大山阿夫利神社】


大山阿夫利神社本社への巡礼登山道。【大山阿夫利神社】

大山阿夫利神社本社への巡礼登山道。【大山阿夫利神社】


大山阿夫利神社本社への巡礼登山道。【大山阿夫利神社】

大山阿夫利神社本社への巡礼登山道。【大山阿夫利神社】


大山阿夫利神社本社。山頂にあります。【大山阿夫利神社】

大山阿夫利神社本社。山頂にあります。【大山阿夫利神社】


大山阿夫利神社奥の院。山頂にあります。【大山阿夫利神社】

大山阿夫利神社奥の院。山頂にあります。【大山阿夫利神社】

大山詣の記念に縁起物で名産の大山駒を買いました。小さい方は小学生の娘用で400円、大きい方は2,500円でした。今でも大山で手作りしているそうです。【大山阿夫利神社】

大山詣の記念に縁起物で名産の大山駒を買いました。小さい方は小学生の娘用で400円、大きい方は2,500円でした。今でも大山で手作りしているそうです。【大山阿夫利神社】


大山寺の鹿。神の山に住む、野生の鹿です。

大山寺の鹿。神の山に住む、野生の鹿です。

今年は日本の歴では2678年、大山の山岳信仰は神武天皇の御即位、日本の始まりから400〜500年後には始まったことになりますから、西洋の歴(2018年)でいえば紀元前です。それが同じ民族・天皇陛下・国家の元、今日も参拝できるのですから、八百万の神々に感謝せずにはいられません。

一つだけ悲しかったのは、山頂の本社で石尊大権現に二拝二拍手一礼で参拝している人を自分と娘以外、一人もみなかったことです。なんとも寂しい齟齬感があったのは、参道の案内図などにこの巡礼道を「ハイキングコース」と表記されていたこと。帰る道すがら、小学校くらいから日本書紀や古事記をもっとしっかりと教えないといけないのではないか、などと大げさな事をついつい考えてしまいました。

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