太田道灌
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太田道灌
(おおた どうかん 1432-1486)
室町後期、扇ガ谷上杉家を支えた文武両道の名将
現在英勝寺となっている地はかつて、室町時代後期の名将、太田資長(道灌)の屋敷でした。太田道灌は通称であり、資長といいます。扇ガ谷上杉家の家宰、武蔵守護代。江戸城を築いたことでも知られる名将です。父資清とともに山内上杉家に押されていた扇ガ谷上杉家を盛り立てました。全てにおいて優れた資長(道灌)の力によって扇ガ谷上杉家は勢力を伸ばし、資長(道灌)の威信は並ぶ物のないものとなりました。
1486年(文明18年)、扇ガ谷上杉家当主、上杉定正の糟屋の館(現在の神奈川県伊勢原市)において暗殺されました。享年55歳でした。下克上の匂い漂うこの時代、威信人望ともに高すぎた資長(道灌)を主家が恐れたからとも、扇ガ谷上杉家の増長を快く思わない山内上杉家の画策ともいわれます。
摂津源氏の流れをくむ太田氏当主
太田氏は摂津源氏の一族。源頼光の玄孫(孫の孫)頼政の末子、源広綱を祖としています。源頼政は平安末期の源氏凋落期に破格の従三位に出世したことから源三位と呼ばれ、以仁王とともに平氏打倒の挙兵を行い、令旨を全国の源氏に伝えた日本史上の重要人物です。頼政は宇治平等院の戦いに敗れて自害しますが、令旨を受けた源頼朝は治承・寿永の乱を平定し鎌倉をつくりあげました。
太田氏の祖となった頼政の子、広綱は父頼政挙兵の際、伊豆におり源頼朝の傘下として戦います。治承寿永の乱を通じて活躍し、従五位下駿河守となりますが源頼朝の上洛に随行し帰路についた1190年(建久元年)11月14日、突然逐電します。『吾妻鏡』はこのように伝えています。
「甲午、晴れ。源頼朝は関東に下向された。前後の随兵、供奉人は上洛の時と同じようだった。ただし、駿河守(源)広綱が今朝、突然逐電した。家人らはこのことを知らずに仰天したという。広綱は故伊豆守(源)仲綱(広綱の養父)の息子である。長年頼朝に従い関東に祇候していた。そこで去る元暦元年(1184年)6月5日、駿河守に任じられた。頼朝に伴って上洛したところこのようになった。その意図はわからないという。」
1191年(建久2年)6月24日「辛丑。神護寺の文覚上人が申し送ってきた。駿河守(源)広綱は遁世の後、現在上醍醐におり、その報告を聞いたとのことだった。」
父 資清とともに文武に才知を発揮した資長(道灌)
その広綱の子孫、源資国が丹波国桑田郡太田に住したことから太田氏を名乗りました。子孫の太田資清が扇ガ谷上杉家の当主上杉持朝に仕え、相模守護代を務めます。資清は文武に優れた名将として人望厚く、歌道においては著名な子の道灌よりも優れていたという。
子の資長(道灌)は幼名を鶴千代といい、鎌倉五山や足利学校に学び1446年(文安3年)に元服しました。幼少から英才ぶりを発揮し数々の逸話が残されています。父の資清はこの頃出家し道真と名乗ります。
資長(道灌)は1456年(康正2年)、家督を譲られます。当主となった資長(道灌)は鎌倉公方足利成氏と幕府(山内・扇ガ谷上杉)が対立し戦国時代の遠因となった28年に及ぶ享徳の乱や長尾景春の乱に活躍し、景春の乱では道灌独力で鎮圧してしまいます。
1455年(享徳3年)から1483年(文明14)まで28年に及んだ享徳の乱は、戦国時代のきっかけとなった関東の大乱でした。乱の始まりとほぼ時を同じくして太田家当主となった資長(道灌)は幕府方(山内・扇ガ谷上杉家)の中心武将として活躍します。
有名な江戸築城もまた、この乱において古川公方の有力武将だった房総の千葉氏への対策から、幕府方、古川公方方、両勢力の境界となっていた利根川下流域に築かれました。資長(道灌)自ら城主となり日々、兵士の鍛錬が行われたそうです。
江戸築城ともう一つ名高いのが、歌人としての山吹の里伝説です。越生(おごせ/現在の埼玉県入間郡)に来ていた道灌はにわか雨に遭い、蓑をかりようと一軒の農家を訪ねます。出てきた娘は一輪の山吹を差し出しました。蓑を借りたいのに山吹の花を渡された道灌は腹立たしく思います。
道灌は後にこのことを家臣に話すと、その心を説いてくれました。「それは後拾遺和歌集にある兼明親王の古歌“七重八重 花は咲けども 山吹の実一つだに なきぞ悲しき”にかけて、貧しい茅葺き農家のため蓑(実の)一つだにないということを、奥ゆかしく返答したのだ知ります。古歌を知らなかったことを恥じた道灌は、その後歌道よくし、名高い歌人となりました。