三浦大介腹切の松
目 次
三浦大介腹切の松
(みうらおおすけはらきりのまつ)
小さな公園の一角に秘められた歴史のドラマ
1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵に加わった三浦氏の当主、三浦義明は衣笠城合戦に敗れこのあたりにあった松の下で自害したと伝わります。
エリア横須賀
住 所横須賀市大矢部5-18(腹切松公園内)
アクセスJR「衣笠駅」より徒歩5分「衣笠十字路」バス停より乗車、「満昌寺」バス停下車徒歩5分/「大矢部三丁目」バス停下車、徒歩3分
神奈川県横須賀市大矢部5丁目18
1180年(治承4年)8月17日、源氏の嫡流 源頼朝は平氏打倒の兵を挙げます。源頼朝から遡ること4代、源頼義による前九年の役(1063年)の戦功から三浦の地を得て以来、源氏累代の家人であった三浦一族は当主三浦大介義明の号令一下こぞって加勢します。
源頼朝の元に向かうべく出発した三浦一族の軍勢は途中、酒匂川の増水に足止めされ、そうこうしているうちに頼朝は石橋山の合戦に敗れます。石橋山の敗戦を聞いた三浦軍は平氏の攻撃に備え本拠地である衣笠城に入ります。
8月26日、当時平氏方に義理立てしていた江戸重長、河越重頼、畠山重忠等の率いる3,000騎が衣笠城に押し寄せます。守る三浦勢は400騎余り。東の木戸口は三浦義澄と義連、西の木戸に和田義盛と金田頼次、中陣に長江義景と大多和義久を配し、よく守りましたが多勢に無勢。
敗戦を悟った三浦義明は、頼朝に助成するよういい含めて一族郎党を城から逃がし、城と運命をともにします。その時義明はこういったそうです。この時義明は89歳。
「源氏累代の家人として、幸いにも貴種再興にめぐりあうことができた。こんなに喜ばしいことがあろうか。生きながらえてすでに80有余年。これから先は幾ばくもない。この上は老いた命を武衛(源頼朝)に捧げ、城に残り手柄としたい。汝らはすぐに退却し、頼朝の安否をおたずねするように。私は一人この城に残り、軍勢が多くいるように見せてやろう」。
地元のいい伝えによれば、三浦大介義明は城より逃れ、祖先の霊を祀る円通寺(現在は海上自衛隊の弾薬庫)を望むこのあたりの松の下で自害したといいます。その昔、このあたりに松の古木があり、大矢部の里人たちは三浦大介腹切の松として敬い、由来を伝えてきました。
三浦大介義明腹切り松の伝承地は、830有余年の年月が流れた今日までその武名を伝えています。現在では腹切松公園として一般に開放され、公園の一角には石碑や案内板が建てられています。子供たちが鉄棒やブランコで遊ぶ公園の傍に日本の転換点ともいえる大きな歴史の伝承が込められているところが何ともいえず魅力的です。
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佐原の末裔です。
是非、何時の日か満昌寺様にお参りに行きたいと思います。
By佐原義英