海南神社

目 次

海南神社

(かいなんじんじゃ)

千年の昔から三浦を守る三浦半島総鎮守、三浦一族の祈願所

三浦一族の祈願所であり、三浦義明は源頼朝挙兵をこの神社で占ったといいます。平氏を打倒し鎌倉幕府を開いた頼朝が寄進した大銀杏がある三浦半島の総鎮守であり、そのゆかりは遠く清和天皇の御代(858-876)に遡ります。

エリア三浦市
住 所三浦市三崎4-12-11
主祭神藤原資盈(ふじわらすけみつ)、盈渡姫(みつわたりひめ)、地主大神、天照大御神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、天之日鷲命(あめのひわしのみこと)、菅原道真、筌竜弁財天(せんりゅうべんざいてん)
創 建866年、982年(現在の地に社殿造営)
アクセス京急「三崎口駅」よりバス「三崎港」下車、徒歩2分
公式HPhttp://kainan.server-shared.com

海南神社。千年の歴史を感じるお社は三崎公園から歩いてすぐです。

海南神社。千年の歴史を感じるお社は三崎公園から歩いてすぐです。

海南神社は三浦一族の祈願所であり、三浦義明は源頼朝挙兵をこの神社で占ったといいます。平氏を打倒し鎌倉幕府を開いた頼朝が寄進した大銀杏がある三浦半島の総鎮守であり、そのゆかりは遠く清和天皇の御代(858-876)に遡ります。

神奈川県三浦市三崎4丁目12−11

三浦義明の「神事狐合」

藤原資盈(ふじわらすけみつ)を祀り、三浦一族の氏神・祈願所となった神社です。三浦半島や房総などに勢力をはった源氏累代の家人、三浦一族の当主三浦義明源頼朝挙兵の際、海南神社において「神事狐合」(白と赤の狐を戦わせ占う)を行い、源平の帰趨を占い、白狐が勝ったため源頼朝に加わったといわれています。

個人的には、帰趨を占ったということではなく、源氏につくと決めたことに神意があるかを占ったのではないかと想像します。平安期に平直方源頼義(998-1082)に鎌倉を譲って以来、坂東及び東国に地盤を持ったのは源氏であり、平治の乱に敗れ伊豆配流となった源頼朝の配所にも三浦義明は幾度も訪れています。「源頼朝挙兵の際には即座に助力する」そう考える自分の決断に対して神意はどうだ、と考えたのなら大いにありうることだと勝手な想像を巡らします。

源頼朝寄進による大銀杏

境内には源頼朝が平氏打倒、源氏政権樹立の大願成就の記念とともに寄進したと伝わる樹齢800年の大銀杏(大公孫樹)があります。三浦市内で最も古い木であり、幹周は4.6m、樹高は15mです。

三浦一族の繁栄、源頼朝の三崎来遊、後北条氏による治世、江戸時代の水軍奉行、明治の城ヶ島軍事施設化、現代の野方図な埋め立てと無粋な近代建築などなど、この古木が800年の三崎を見てきたかと思うと、歴史散歩の醍醐味を感じずにはいられません。

海南神社、千年の歴史

海南神社は藤原資盈を祀ります。武門源氏の始祖となった清和天皇(850-881)の御代(858-876)、九州太宰昭小弐広嗣(藤原広嗣。藤原鎌足の子、藤原不比等の孫)の子孫、藤原資盈は皇位継承の争いにおいて伴大納言善男に味方しなかったことから讒訴され筑紫に流罪となります。その渡航中暴風に遭い864年(貞観6年)一族とともに三崎に漂着します。

藤原資盈はこの地の長となり、房総の海賊を平定して漁業の技術を導入し、文化、福祉にも尽力し、住民の尊敬を集めるところとなりました。866年(貞観8年)に資盈が亡くなると住民は花暮海岸に祠を建て祀ります。982年(天元5年)、河内源氏の祖、源頼信の時代に現在の地に社殿が造営され、三浦の総社となりました。

その後、三浦氏の祖といわれ源頼義から三浦の地を与えられた三浦為通の子、三浦為継は社領を寄進、社殿を改築し三浦氏の祈願所としました。

海南神社は昭和の名横綱、双葉山の参拝を氏子たちが許さなかったという興味深い社史を持っています。これは、その昔天覧試合で相撲に負けたからという故事により、御祭神藤原資盈が相撲嫌いとなったためです。三崎に相撲が催されると必ず雨となり、過去に力士の参詣は一度もありません。

国の重要無形民族文化財/ユネスコ文化財世界遺産となった「ちゃっきらこ」

毎年1月15日に奉納される舞、「ちゃっきらこ」は、国の重要無形民族文化財に指定され、ユネスコの世界遺産に登録されています。祭神藤原資盈の妻、盈渡姫が土地の娘達に教えたとも、源頼朝が歌舞島に来遊した際に里女の歌に合わせて童女が即興で踊ったともいわれています。

水軍の拠点であり古来から愛された風光明媚の地、三崎

三浦半島の最西南端に位置する三崎は古来から知られた風光明媚の地です。平安以来、戦国時代に三浦義同が後北条氏に攻め滅ぼされるまで約450年もの間、三浦一族が治めました。その後、後北条氏が入り対岸の里見氏に対する備えとし、江戸時代には徳川の三崎御船奉行向井政綱が治め徳川水軍の拠点となりました。境内にある神橋の擬宝珠は向井政綱の子、忠勝が1640年(寛永10年)に奉納したものです。

源頼朝と三崎の三御所

鎌倉にある源頼朝の大倉御所から三崎へは国道134号を下り約28km、海里にして6里(約24km)。歩いていくと朝出て夕方には到着する距離ですから、別荘としてはとても使い勝手がよかったでしょう。

源頼朝は三崎に3つの御所をつくったと伝わります。椿の御所、桃の御所、桜の御所の三御所です。三崎の三御所と呼ばれています。椿の御所は北条湾を挟んで大浦側にある現在、大椿寺となっている場所にあったといわれています。桃の御所は相模湾側、歌舞島と呼ばれた付近、現在の見桃寺にあたります。桜の御所はその中間、現在本瑞寺となっている場所にあったそうです。

『吾妻鏡』に登場する三崎御所

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』にも三崎御所の記述が幾度もあらわれます。いくつか抜粋します。

1194年(建久5年)閏8月1日「頼朝は一条高能を伴って三浦に渡った。三崎の津に山荘を建てるためである。足利義兼北条時政以下多くの御家人が従い巷に溢れたという。頼家、政子、大姫らも追って訪れた。」
同年9月6日「頼朝は三浦三崎の別荘を訪れた。小笠懸の勝負が行われた。」

海南神社関連記事

大椿寺(椿の御所跡)見桃寺(桃の御所跡)本瑞寺(桜の御所跡)満昌寺(三浦義明墓所)来迎寺(材木座/三浦義明墓所)三浦一族

海南神社フォトギャラリー

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

三浦

前の記事

本瑞寺
寺と神社

次の記事

満願寺