和田義盛旧里碑
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和田義盛旧里碑
(わだよしもりきゅうりひ)
源頼朝と共に「鎌倉」をつくった勇者、和田義盛本拠地跡。
鎌倉から逗子、葉山を過ぎて海岸線を約20km下った三浦市初声町和田に和田義盛旧里跡があります。源頼朝とともに挙兵し数々の戦功を重ねた勇者、和田義盛の本拠地です。三浦義明の孫として生まれた義盛は和田の地を領地としたことから和田を名乗りました。
エリア三浦
住 所神奈川県三浦市初声町和田
アクセス京急「三崎口駅」よりバス「和田」下車、徒歩2分
神奈川県三浦市初声町和田
三浦一族の支流、和田一族を起こした武勇の士、和田義盛の本拠地屋敷があったといわれる場所です。この地域は現在でも和田と地名がつけられています。バスで行く場合は京急三崎口駅からバスに乗り「和田」というバス停で下車し、左手の道を少し歩くと見えてきます。歩くと三崎口駅から約1.8kmです。横浜方面から車の場合は、国道134を走り同じく「和田」信号を右手に曲がります。
源頼朝とともに「鎌倉」を創った三浦一族。一族の当主は、三浦大介(おおすけ)義明です。源頼朝の父、義朝時代から源氏を支え、頼朝挙兵時には80歳を超える老身をおして経ち、源氏の再興を子孫に託して独り衣笠城に散っていきました。
和田義盛は三浦義明の孫にあたります。頼朝挙兵の1180年(治承4年)34歳だった義盛は武勇に優れ弓馬随一の強者といわれました。源頼朝の「鎌倉創成」、治承・寿永の乱を通じて数々の戦功を挙げ、武の最高職である侍所別当に任ぜられ頼朝、頼家、実朝、源氏3代に仕えました。
その後、源氏の衰退とともに北条氏と対立するようになり、1213年(建保元年)建保の乱の末、敗れ一族とともに由比ケ浜において自害します。その場所は現在も和田塚として残っています。和田義盛本拠地である三浦の屋敷はこのあたりにあり、鎌倉の屋敷は鶴岡八幡宮三ノ鳥居前、現在鎌倉彫の陽雅堂がある場所にあったといわれています。