薬王寺跡
目 次
薬王寺跡
(やくおうじあと)
三浦義澄の墓所
平治の乱にも父三浦義明とともに参加し、源氏累代の家人として源頼朝の挙兵、幕府創成にも中心的役割を果たした三浦一族の当主、三浦義澄の墓所です。
エリア横須賀
住 所横須賀市大矢部1-13
アクセスJR「衣笠駅」下車、衣笠十字路より野比行バス10分「満昌寺前」下車、徒歩8分
薬王寺跡は、平治の乱にも父三浦義明とともに参加し、源氏累代の家人として源頼朝の挙兵、幕府創成にも中心的役割を果たした三浦一族の当主、三浦義澄の墓所です。
神奈川県横須賀市大矢部1丁目13
三浦義澄(1127-1200)の墓所と伝わる場所です。三浦義澄は平安時代から三浦半島と安房の一部に勢力を張った三浦一族の当主。三浦義明の子。
三浦氏は桓武平氏の末裔であり、源頼朝から遡ること4代、源頼義とともに前九年の役を戦った三浦為通が頼義から三浦の地を与えられたことから三浦を名乗り、それ以来源氏累代の家臣となりました。
義澄と父義明は頼朝の父義朝、頼朝とともに平治の乱を戦いました。平治の乱では頼朝の兄である義平に従いました。1180年(治承4年)8月17日、源頼朝は配流先の伊豆において平氏打倒の兵を挙げます。衣笠城を本拠地として三浦半島一帯と安房に勢力をはっていた三浦義明は、挙兵前の6月、義澄を伊豆の頼朝のもとに派遣し挙兵を促したといわれています。頼朝挙兵時には即座に三浦義澄、和田義盛ら300余騎が加勢に向かいました。
酒匂川の増水により石橋山の合戦に間に合わなかった三浦勢は衣笠城での合戦において父義明を失うものの、その後頼朝と合流し数々の戦に武功を挙げ鎌倉初期の宿老として重きをなします。
「老いた命を頼朝に捧げ、子孫の手柄としたい」といって衣笠城に籠り独り戦い散っていった父義明の志を果たしたといえるでしょう。北条氏に匹敵する有力御家人として頼家の代には十三人合議制のひとりとなりました。
薬王寺跡は近殿神社前を右手に進みしばらくいくと住宅地の合間にあります。宅地化は残念とはいえこうして残されていることは喜ばしいことです。
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