三浦一族ゆかりの地

目 次

三浦一族ゆかりの地

頼朝を支えた雄族

源頼朝による武威の王国「鎌倉」創成にとって三浦氏は大きな力となりました。三浦氏の祖、村岡(三浦)平太夫為通は源頼義に従って前九年の役を戦った功により1063年(康平6年)源頼義より三浦の地を与えらたことから三浦姓を名乗り、衣笠城を築きました。三浦氏にゆかりのある史跡は鎌倉、横須賀、三浦など三浦半島一帯に広く点在しています。
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満昌寺。三浦氏の居城であった衣笠城の近くにあります。源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立したのが始まりです。三浦義明の首塚や国の重要文化財となっている三浦大介義明坐像などがあります。

満昌寺。三浦氏の居城であった衣笠城の近くにあります。源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建立したのが始まりです。三浦義明の首塚や国の重要文化財となっている三浦大介義明坐像などがあります。

鎌倉にある三浦一族の史跡

三浦義明の墓(来迎寺)

三浦半島一帯を勢力下に持つ三浦一族の長として源頼朝の父義朝にも仕えた三浦義明の鎌倉の墓。頼朝挙兵初期、衣笠城の戦いにおいて一族を「頼朝をたすけよ」と城から逃し、独り籠城戦に散りました。頼朝は苦しかった時期に自らの命を捧げた義明を忠義の士として生涯讃え、義明を弔うために寺院をいくつか建立しています。この来迎寺はそのひとつ能蔵寺があった場所。能蔵寺はその後来迎寺となりましたが義明の墓所は残され現在に至ります。

三浦泰村供養塔(法華堂跡)

前九年の役(1051-1062)、後三年の役(1083-1087)以来源氏累代の家臣として鎌倉幕府創成にも大功のあった大勢力、三浦一族滅亡の地です。頼朝死去後の勢力争いにおいて比企、畠山、和田と諸勢力を駆逐した北条氏は時頼の代となり自らと拮抗する勢力を持つ三浦一族に狙いを定め、反三浦の急先鋒安達氏と組み1247年(宝治元年)の宝治合戦において三浦一族を滅ぼしました。敗れた三浦泰村と一族500名は亡き頼朝の墓所(法華堂)のあったこの場所において自害。法華堂跡にあるやぐらの一つに供養塔がたてられています。

和田塚

三浦氏の支族、和田一族終焉の地です。当主の和田義盛は初代侍所別当を務めた幕府の有力者でした。頼朝死後の権力を狙う北条氏に狙われた和田氏は北条義時らの挑発に耐えられず1213年(建保元年)和田合戦を起こします。頼りの三浦義村を義時に取り込まれた和田義盛はこの戦いに敗れ、この地において一族もろとも自害します。それ以前は古代の墳墓であったようです。

住吉城址

宝治合戦において滅ぼされた三浦一族は南北朝期に再興します。その最後の当主となったのが三浦道寸(義同/よしあつ)です。道寸は戦国時代初期の小大名として相模の東部に勢力を築き住吉城は弟道香の居城でした。1510年頃、伊豆、小田原から東へと進出する北条早雲は三浦氏攻略を決め、1512年(永正9年)岡崎城を落とされた道寸は住吉城に退却し抵抗するものの道香は戦死し落城、新井城に籠城し3年にわたり頑強に抵抗ますが1516年(永正3年)ついに落城。三浦氏は前後の北条氏に2度にわたり滅亡させられてしまいます。住吉城跡は光明寺の前を小坪方面に向かい、トンネル手前を右の細い道に入り正覚寺背後の山にあります。

横須賀にある三浦一族の史跡

衣笠城址

平安時代に源頼義から三浦の地を与えられて以来、三浦半島と安房に勢力を張っていた三浦一族の本拠地です。源頼朝挙兵初期の戦いにおいて、三浦一族の当主義明は衣笠城の合戦において平氏の大軍に囲まれると、子孫たちを頼朝の挙兵を助けよと城から逃がし独り散ります。その後子孫や一族は頼朝と共に戦い、鎌倉成立を成し遂げます。日本の歴史上最大級の転換点をこの静かな城址に感じます。

満昌寺

源頼朝三浦義明の菩提を弔うために建立した格別の由来を持つ寺院。三浦義明の墓があり、国の重要文化財となっている三浦義明坐像も安置されています。本堂前には源頼朝寄進と伝わるそれはそれは見事なツツジが植えられています。鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』にも登場する名所中の名所です。

清雲寺

この清雲寺には源頼朝から遡ること4代、源頼義に従った三浦3代、為通為継義継の墓があります。義継の次が義明。源氏とともに戦ってきた三浦一族の歴史を実感することのできる場所です。

三浦大介腹切の松

1180年(治承4年)8月17日、源頼朝挙兵当初の衣笠城合戦に敗れた三浦一族の当主、三浦大介義明が自害した場所と伝わります。頼朝挙兵をきいた源氏累代の家人三浦一族の当主、三浦大介義明は即座に軍勢を差し向けますが酒匂川の増水により足止めされている間に、頼朝は石橋山の戦いに敗れます。平氏方の攻撃に備えて本拠地衣笠城に籠城すると、江戸重長、河越重頼、畠山重忠等の率いる3,000騎が衣笠城に押し寄せます。対する三浦勢400騎余りも善戦しますが、敗戦は濃厚となります。義明は一族を「頼朝を助けよ」と城から逃がし、一人老身を捧げました。その最後の地と伝承される場所です。

浄楽寺

源頼朝が父義朝とその忠臣鎌田正清の菩提を弔うため鎌倉に建立した勝長寿院という大寺院がありました。浄楽寺は勝長寿院が焼失した跡、その本尊を移したと伝わる圧巻の歴史を持っています。創建は初代侍所別当、和田義盛。本尊の阿弥陀三尊像は大正10年に国宝指定を受けています(現在は国指定有形文化財)。

十二所神社(三浦十二天)

三浦義明の弟である三浦為清ゆかりの仏地。横須賀市芦名にある十二所神社(三浦十二天)は、近くにあったとされる三浦為清の屋敷の守護として創建されたと伝わります。源頼家誕生の際に源頼朝が祈禱のため使者を派遣した近国10か所の寺社のうちの一つです。十二所神社という名称は明治の神仏分離・廃仏毀釈で無理に改称されたものと思われ、あくまで三浦十二天。吾妻鏡にも三浦十二天と記されています。

薬王寺跡

三浦義明の後を継いだ義澄の墓所と伝わる場所です。薬王寺はなくなり、義澄の墓所のみが残っています。満昌寺、清雲寺、近殿神社、薬王寺跡はすべて近くにありますから、どちらかに訪れた際にはぜひ他の場所も訪れてみてください。

満願寺

三浦義明の子、佐原十郎義連が創建した寺院です。義連は弓馬に優れた勇者。一ノ谷合戦、名高き「鵯越」の一番乗りとして後世に伝えられた伝説の武士です。満願寺には義連のものと伝わる墓所があり、国重要文化財である観世音菩薩像、地蔵菩薩像を安置しています。

近殿神社

近殿神社は三浦氏6代目の当主、三浦義村を祀ります。源頼朝挙兵以来の重鎮として三浦一族を率いた義村は、北条氏との激しい権力争いを生き抜き、北条氏と肩を並べる最盛期を築いたといわれています。

三浦にある三浦一族の史跡

本瑞寺

三崎にある本瑞寺は源頼朝が建てた桜の御所跡に建てられています。戦国初期に再興された三浦氏の鎌倉にあった菩提寺を移したものといわれています。三崎の小高い丘の上にあり、穏やかで暖かな三崎の静けさを感じる心地よい場所です。

和田義盛旧里碑

三浦義明の孫、和田義盛が本拠地とした場所。現在でも和田という地名が残っています。近くには和田城址もあり、鎌倉武士の長、侍所別当を務めた和田義盛を偲ぶことができます。

和田城址

和田義盛の居城。現在城らしい史跡はなく、城址の石碑と説明板が建つのみです。しかし、周囲には木戸脇、唐池、出口などの地名が残り名残となっています。海も近く、豊かな穀倉地帯だったこの地を拠点に和田義盛は数々の戦に戦功を挙げました。

三浦一族の代表的な人物

三浦為通(1010?-1083?)

三浦氏の祖とされます。桓武天皇の孫、高望王が平高望と平性を名乗り、その子平良文の曾孫、平忠通の子が三浦為通。上述の通り源頼義から前九年の役の功により三浦の地を与えられました。

三浦為継(生没年不明)

為通の子。源義家による後三年の役に従い功を立てた。

三浦義継(1067-1159)

相模国三浦郡を治め三浦介を称し在庁官人として活躍。その後相模介となり、相模国の東側と安房地域に大きな勢力を張りました。

三浦義明(1092-1180)

義継の嫡男。次男で後継ぎの義澄を伴い、保元・平治の乱(1156・1160)を源義朝に従って戦いました。平治の乱で源義朝方は敗れ、義明は京都から落ち延びて三浦に戻ります。以後、大番役のために上京する際に伊豆に配流となっていた源頼朝を訪ねます。頼朝が挙兵するとこれに応じますが、石橋山の合戦において頼朝が敗れると衣笠城の籠城戦を戦い、頼朝を助けよと一族を安房国に逃し一人老身を捧げました。

三浦義澄(1127-1200)

義明の次男。義明の後を継ぐ。源頼朝の中心的勢力の一人として治承・寿永の乱を戦い、鎌倉武家政権成立後は宿老として重要な役割を果たします。頼朝の死後、頼家の代からは十三人の合議制の一人となって幕政を支えました。

和田義盛(1147-1213)

三浦義明の子である杉本義宗の子。三浦義明の孫として三浦一族とともに源頼朝挙兵に加わり数々の合戦に功を挙げ、鎌倉幕府初代侍所別当となった武勇の誉れ高い人物。頼家の代となっても挙兵以来の宿老として十三人合議制のひとりとなり幕政を支える重鎮でした。1213年(建暦3年)和田合戦において北条義時と戦い一族もろとも滅びました。

三浦義村(?-1239)

義澄の嫡男。為通から数えて6代目となる三浦の当主。母は伊東祐親の娘。三浦一族の長として幕政に重きをなし、評定衆をつとめるなど活躍しました。権謀術数に優れた策略家であったといわれています。承久の乱においては幕府軍大将の一人として活躍しました。その後も数多くの有力者が北条時政義時に滅ぼされる中、彼等と渡り合い大勢力を築き上げます。甥にあたる第3代執権北条泰時の時代にはその威勢は最も高かったといいます。

三浦泰村(1184-1247)

義村の次男。武勇に優れ、父義村とともに承久の乱を戦った。執権北条泰時から泰の一字をうけたのみならず、泰時の娘を娶ります。1238年からは評定衆の一人となり幕政に重要な位置を占めます。源実朝暗殺後、摂関家からまねかれ第4代将軍となった九条頼経と親密となり、弟の光村が第5代将軍九条頼嗣に近づき、北条氏に敵対視されるようになり、1247年(宝治元年)泰村は挙兵し、北条時頼、安達景盛と戦って敗れ一族とともに法華堂の地で自害しました。

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