和田塚

(わだづか)

和田一族終焉の地

源頼朝亡き後、専制政治を目指す北条氏にとって最大のライバルであった三浦一族の支族として大きな力を持っていた和田一族。一族を率いた和田義盛は1213年(建保元年)、北条義時と戦い一族とともに敗死します。

エリア由比ヶ浜・材木座
住 所鎌倉市由比ガ浜3丁目
アクセス江ノ電和田塚駅徒歩1分、または鎌倉駅西口下車、徒歩15分

和田塚は小さな公園のようになっていて石碑がいくつか建てられています。

和田塚は小さな公園のようになっていて石碑がいくつか建てられています。

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和田塚は1213年(建保元年)に起こった北条義時和田義盛による武力衝突(和田合戦)に敗れた和田一族の埋葬された地です。和田塚となる前は古墳時代の墳墓であったそうです。

大正末期の開墾によって鎌倉にあった多くの塚は破壊されたものの、この和田塚はかろうじて残りました。この頃開墾のためこの付近を掘り起こしたところ、数百体の白骨が出たといわれています。

源頼朝の挙兵、幕府創設に功のあった一族、比企、梶原、畠山、三浦、和田、北条は頼朝の死後権力争いを繰り広げます。権力争いは執権北条時政義時親子を中心に展開していきました。

和田義盛は、坂東八平氏である三浦氏の支族、和田氏の長。源頼朝挙兵の際には三浦一族の長であった三浦義明和田義盛の祖父)とともに頼朝に味方します。鎌倉入り、平氏追討、奥州合戦に功を挙げ、幕府創設時には初代侍所別当に任じられた初期鎌倉幕府の有力御家人でした。

北条専制政治を狙う北条時政・義時親子は、比企能員畠山重忠という有力御家人を倒し、最大のライバルである三浦一族を狙います。

1213年(建保元年)、信濃国の泉親衝が前将軍源頼家の遺児千寿を擁して北条氏打倒の乱を企てますが事前に発覚し捕らえられます。これに和田義盛の子である義直と甥の胤長が加わっていました。

和田義盛は子や甥の赦免を嘆願しますが、北条義時は子の義直の赦免のみとし甥の胤長を陸奥に配流します。これ以外にも北条義時和田義盛の面目を潰す挑発を続け、5月2日義盛は北条氏打倒の兵を挙げます。

一族の三浦義村の裏切りによって敗れた義盛は翌5月3日に敗死。67歳でした。共に自害した一族は250余人ともいわれています。

鎌倉駅から六地蔵の交差点に向かって歩き、由比ガ浜方面へと進むと江ノ電「和田塚駅」があり、その近くに和田塚があります。和田塚駅を右に見てほんの少しいった左側です。

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コメント

  1. かに
    無常堂塚の周囲に道路を作るため、古墳群が壊されたのは大正ではなく明治20年ですよ?
    • 鎌倉タイム管理人
      御指摘ありがとうございます。一応確認しまして対処いたします。

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