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御家人

山中にある住吉城址。雰囲気があります。

住吉城址

鎌倉時代、宝治合戦によって三浦一族の多くは滅ぼされ、その後再興されます。しかし戦国時代初期に今度は後北条の北条早雲によって滅ぼされてしまいます。最後の当主三浦道寸の弟道香はこの住吉城において北条早雲と戦いました。

和田塚。小さな公園のようになっていて石碑がいくつか建てられています。

和田塚

和田塚。源頼朝亡き後、専制政治を目指す北条氏にとって最大のライバルであった三浦一族の支族として大きな力を持っていた和田一族。一族を率いた和田義盛は1213年(建保元年)、北条義時と戦い一族とともに敗死します。

三浦泰村供養塔。頼朝墓の東側に法華堂跡があり、そこにあるやぐらのひとつに供養塔があります。

三浦泰村供養塔

三浦泰村供養塔。1247年(宝治元年)鎌倉を舞台に合戦が勃発します。二大勢力であった北条と三浦が戦い、敗れた三浦一族は滅亡します。これを機に北条得宗家による専制体制が確立します。

この辺りだといわれています。後ろは朝比奈切通しの入口です。

上総介広常屋敷跡

上総介広常屋敷跡。1183年、関東の最有力御家人上総介広常は太刀洗水の近くにあった屋敷で梶原景時に討たれます。頼朝に対して下馬の礼をとらなかったからとか、関東独立の志があったなどその理由は諸説あります。朝比奈切通しへと向かう途中にあります。

歴史をたたえながらいまも滾々と湧き出る鎌倉五名水のひとつ、太刀洗水。

梶原景時太刀洗水

梶原景時太刀洗水。1183年、関東の最有力御家人上総介広常は太刀洗水の近くにあった屋敷で梶原景時に討たれます。頼朝に対して下馬の礼をとらなかったからとか、関東独立の志があったなどその理由は諸説あります。朝比奈切通しへと向かう途中にあります。

畠山重忠邸跡の石碑。現在は民家が建ち、石碑が残るのみです。

畠山重忠邸跡

畠山重忠邸跡。頼朝挙兵から鎌倉幕府創設まで多大な貢献を果たした伝説の鎌倉武士。廉直な人柄は人望を集め、戦場での知略とその怪力は数々の伝説を生みました。

道筋ですが、まずは五大堂明王院を目指しましょう。明王院の手前が二股に分かれています。そこを左手に進み、テニスクラブを越えていくと見えてきます。

梶原景時屋敷跡

御霊神社に祀られる湘南地域を拓いた平安の武将、鎌倉権五郎景政の直径子孫が梶原景時。大庭氏はこの系統からわかれた同族です。頼朝の側近として活躍し5か国の守護に任じられ、侍所所司、厩別当などを務めました。和歌に通じ、教養深い人であったとされています。

源頼朝の墓へと登る階段の手前にある細い道を右手に入って少し進むと左手に見えてきます。頼朝の墓から山沿いにもいけます。

大江広元の墓(島津忠久、毛利季光の墓)

鎌倉幕府の基盤整備に多大な貢献を果たした貴族、大江広元の墓と伝わるやぐらがあります。階段を登るとまず大きな平場があり、ここは北条義時の墓があったといわれる場所です。平場の左手には北条氏によって滅ぼされた三浦泰村一族の墓があります。

海に近い森に佇む甘縄神明神社の境内にある、安達盛長邸跡の石碑。

安達盛長邸跡

父・源義朝が平清盛に敗れ、伊豆蛭ヶ小島に配流となり20年という長い年月を過ごした源頼朝。その間、物資の援助や交流を惜しまず京都の様子を伝えることにも尽力したのが頼朝の乳母だった比企尼でした。

土佐坊昌俊邸跡。宝戒寺から小町大路を少し駅方向に戻ったところにあります。

土佐坊昌俊邸跡

義経追討に活躍した土佐坊昌俊の屋敷跡です。土佐坊の命を賭けた仕事によって頼朝は堂々と義経追討の軍を動かしたのでした。

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