安達盛長邸跡

(あだちもりながていあと)

伊豆配流時代より頼朝を支えた忠臣安達盛長の屋敷跡

父・源義朝が平清盛に敗れ、伊豆蛭ヶ小島に配流となり20年という長い年月を過ごした源頼朝。その間、物資の援助や交流を惜しまず京都の様子を伝えることにも尽力したのが頼朝の乳母だった比企尼でした。

エリア長谷・腰越
住 所鎌倉市長谷1-12-1(甘縄神明神社境内)

Loading
地図の中心へ
交通状況
自転車で行く
乗換
現在地
Google Mapsルートを検索

その比企尼の娘を妻とした縁により、流人時代から頼朝を支え続け、挙兵後もその側近として活躍し、幕府が開かれ北条執権政治の時代に至るも鎌倉の重臣として活躍したのが安達盛長です。比企一族は北条氏に滅ぼされてしまいましたが、盛長はその子景盛とともに、北条氏を中心とした幾多の権力闘争を生き抜いた目利きでもあります。頼朝と政子の縁をとりもったとも言われています。

盛長の屋敷は現在も鎌倉最古の神社としてその姿を残す甘縄神明神社の傍らにありました。頼朝は流人時代より自分を支え続けたこの忠臣をことのほか信頼したらしく、頼朝は度々この盛長邸を訪れ、臣下の中でも頼朝に馳走した回数が最も多いといわれます(これを椀飯(おうばん)といいます)。
『吾妻鏡』に盛長椀飯の記述は多いのですが、その中からひとつ。「養和2年正月3日、頼朝の御行始があった。安達盛長の甘縄の家を御成になった。佐々木高綱、足利義兼、北条時政、畠山重忠、三浦義澄、和田義盛が連なった」。

1199年1月に頼朝が死去すると出家して連西と名乗りました。出家して後も源頼家時代の宿老として十三人合議制の一人となって幕政を指導し、梶原景時弾劾に当たっても強硬派の一人となりました。頼朝が亡くなった翌年、1200年4月に後を追うようにして死去。享年66才でした。

生涯官職につくことはありませんでした。この辺りも頼朝による武家政権のグランドデザインを理解していたのではないかと想像します。武人としての能力に恵まれ、頼朝にも信頼されながらこれを理解できなかった義経とは頭の切れが違ったのでしょう。

スポンサー広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です