十二所神社(三浦十二天)

目 次

十二所神社(三浦十二天)

(じゅうにしょじんじゃ・みうらじゅうにてん)

三浦為清ゆかりの三浦十二天

三浦義明の弟、三浦為清の屋敷の守護として創建されたのが三浦十二天です。明治の神仏分離・廃仏毀釈以降、十二所神社となりました。

エリア横須賀
住 所神奈川県横須賀市芦名1-21-26
創 建平安末期
祭神天部十二天。明治の廃仏毀釈以降は「天神七代・地神五代」の神々
アクセスJR「逗子駅」もしくは京急「新逗子駅」より京急バス「市民病院行」・「長井行」他にて「芦名」バス停下車、徒歩8分、もしくは「浄楽寺」バス停下車、徒歩10分

三浦十二天(十二所神社)境内。

三浦十二天(十二所神社)境内。


十二所神社(三浦十二天)地図

風光明媚な十二所神社(三浦十二天)

鎌倉から国道134号を下り、逗子、葉山を過ぎて横須賀に入り、立石、秋谷を過ぎて浄楽寺の辺りを海に下ると、芦名海岸を見下ろす小山に十二所神社(三浦十二天)があります。静かできれいな海を望むとても気持ちのよい神社です。ついつい風光明媚だけに気を取られてしまいそうですが、豊かな歴史をたたえた趣深い神社です。

三浦為清ゆかりの社

平安時代から三浦半島一帯に勢力を持った三浦一族の三浦為清の屋敷が、十二所神社(三浦十二天)を少し国道134号方面に戻った大楠小学校前の城山という台地にあったといわれており、十二所神社(三浦十二天)はその守護として勧請されたと伝わります。創建は不明とされていますが、為清の屋敷の守護神という話から想定すると平安末期ということになります。
三浦為清は三浦義継の三男としてうまれました。源頼朝の挙兵を支えた当主三浦義明の弟ということになります。子孫たちは挙兵を支えた雄族として北条氏と肩を並べる鎌倉幕府の有力御家人となっていきます。鎌倉幕府の有力御家人ということは、当時の日本を代表する武家の一つということです。そんな壮大な歴史の物語が込められているから、風光明媚もより趣深いものになるというものです。
為清は芦名(現在の横須賀市芦名)に住したことから芦名(蘆名)氏を名乗りました。孫の石田為久が木曽義仲を討ち取り近江国石田村を拝領したことからこの地に住み、鎌倉時代中期には蘆名経光が伯耆守護を務めています。為義を祖とする蘆名氏は相模蘆名氏といわれます。戦国武将の石田三成は相模蘆名氏の出であるといわれています。
ちなみに、戦国大名として有名な会津の蘆名氏もまた三浦氏の支流であり会津蘆名氏といわれます。こちらは為清の兄、三浦義明の七男、一の谷鵯越の一番乗りとして名高い佐原義連を祖としています。

あくまで三浦十二天

冒頭から十二所神社(三浦十二天)のカッコ内をしつこく外さない
のは、三浦為清が建てたのは国家神道の十二所神社ではなく、あくまで三浦十二天だからです。三浦為清が屋敷の守護として建てた三浦十二天は、恐らく仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種のことでしょう。明治の神仏分離・廃仏毀釈によりそれを無理やり(?)国家神道の「天神七代・地神五代」の神々に置換えたものと思います。だとすれば、三浦一族ゆかりの場所として歴史を歩く場合はあくまで三浦十二天を詣でるのが筋でしょう。

十二天とは

仏教以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものです。十二天という数は、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えたものです。それぞれの仏神と方角は以下のとおりです。
帝釈天(たいしゃくてん/東)
火天(かてん/東南)
焔摩天(えんまてん/南)
羅刹天(らせつてん/西南)
水天(すいてん/西)
風天(ふうてん/西北)
毘沙門天(びしゃもんてん/北)
伊舎那天(いざなてん/東北)
梵天(ぼんてん/天)
地天(じてん/地)
日天(にってん/日)
月天(がってん/月)

廃仏毀釈では全国各地の神宮寺や寺院は破壊の憂き目をみました。源頼朝公の創建以来、永きにわたって神宮寺であった鶴岡八幡宮も貴重な仏教施設はことごとく破壊され売り払われ、強制的に国家神道の神社となり、源頼朝公ゆかりの大弁財天詣でで賑わった金亀山与願寺(江ノ島)もまた同様の被害にあい「江島神社」とされてしまいました。

源頼朝も頼家誕生の際に奉弊の師を派遣

1182年(寿永元年)8月11日、御台所(北条政子)にお産の兆候があった時(頼家の出産)、源頼朝は近国10か所の権現や神社に奉弊の師を派遣します。その中にこの三浦十二天も含まれています。そしてその使には一の谷鵯越の一番乗り、三浦為清の甥にあたる佐原義連が選ばれています。以下、『吾妻鏡』の記述です。
1182年(寿永元年)8月11日
晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、

伊豆山(土肥の彌太郎(遠平))、筥根(佐野の太郎(基綱))

相模一宮(梶原の平次(景高))、三浦十二天(佐原の十郎(義連)

武蔵六所宮(葛西の三郎(清重))、常陸鹿嶋(小栗の十郎(重成))

上総一宮(小権の介良常)、下総香取社(千葉の小太郎(胤正))

安房東條寺(三浦の平六(義村))、同国洲崎社(安西の三郎(景益))

時代は下って1591年(天正19年)11月には、徳川家康から朱印2石の寄進を受け、1819年(文政2年)3月13日には、会津藩主松平容衆の代理として郡奉行石沢義則が盛大に祭りを行ったという記録が残る、と境内説明板には記されています。

帯解(おびとけ)子安地蔵

三浦十二天境内へと上る階段の下には帯解(おびとけ)子安地蔵があります。こちらは弘法大師が焚いた護摩の灰から造ったと伝わります。腹帯が解けて子を授かるという安産祈願に霊験あらたかなお地蔵様です。

バス停とルートは二つずつ

三浦十二天(十二所神社)にむかう場合、国道134号沿いにある「浄楽寺」、「芦名」いずれかのバス停を使います。近いのは「浄楽寺」、大楠小学校前にある三浦為清屋敷跡とされる台地をみていく場合には「芦名」を使います。いずれのルートも地図に点線で記しました。写真は「芦名」を利用したルートになっています。

近くの淡島神社や浄楽寺もあわせて訪れたい

すぐ近くには淡島神社があります。三浦十二天入口の階段手前を左手にある帯解(おびとけ)子安地蔵の前を左に進むとみえてきます。
また、近くの国道134号沿いに建つ浄楽寺は、かつての国宝である運慶作の2体の像を持つ寺院であり、鎌倉幕府初代侍所別当、和田義盛勝長寿院の本尊を移して創建したといわれています。

三浦十二天フォトギャラリー

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十二所神社(三浦十二天)” に対して1件のコメントがあります。

  1. 毛塚幸治 より:

    1月8日に、いったのですけど建物の戸がしまってて、お参りができませんでした☆松が開けたからかな。残念!

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