大山寺
目 次
大山寺
おおやまでら
天平勝宝7年(755年)、行基の高弟・良弁が開いた古刹
明治の廃仏毀釈まで大山とえば大山寺でした。
エリアその他
住 所神奈川県伊勢原市大山724
宗 派真言宗大覚寺派
御本尊不動明王
創 建天平勝宝4年(752年)、良弁
アクセス小田急線「伊勢原駅」北口より、神奈中バス(約25分)にて「大山寺」下車、徒歩約15分の後、大山ケーブルにて「大山寺駅」下車、徒歩約3分
大山詣の充実した一日
大山寺は相模国を代表する丹沢山系の中心道場として栄えました。現在は大山といえば、大山阿夫利神社が中心となっていますが、これは明治維新・廃仏毀釈運動以降のことです。大山は東京や横浜といった大都市からも近く、シカに出会えるほど自然も豊かです。下社まではケーブルカーに乗り、下社で参拝してから巡礼道を1時間半ほど登り石山大権現に参拝。山々を見下ろす景色を眺めながら一服すればとても良い一日になります。
徒歩の山登りは1時間半ほどで、途中大きな岩がごろごろしている場所もありますが、小学3年生の娘と一緒に登れたくらいですから、難所というほどでもありません。山登りのある寺社は、子供も飽きずに楽しめて、神仏を畏れることを自然と覚えられるのでとても良いと思います。野生のシカにも会えたりして良い感じでした。
大山寺の歴史
大山全体の歴史を大まかに振り返ります。紀元前60年頃、第10代崇神(すじん)天皇の御代に山岳信仰の聖地「石尊大権現」として登場し、天平勝宝4年(752年)に東大寺を開山した奈良時代の名僧、量弁により不動明王を御本尊とする神宮寺、雨降山 大山寺が創建され明治初頭の廃仏毀釈まで続きました。廃仏毀釈により本堂伽藍や大山にある寺院のことごとくが破壊され、大山阿夫利神社として始まり現在に至ります。
もう少し細かく見てみると次のようです。
標高1,252メートルの大山は古代より山岳信仰の対象として敬われてきました。大山阿夫利神社の公式HPなどによれば「今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社」とあります。
第10代崇神(すじん)天皇の在位は、崇神天皇元年〜68年、崇神天皇の諡号(しごう=主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名)は「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)」。支配領域を広げ、課税を導入するなど国家体制を整えたことから、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられます。
日本書紀をそのまま西暦に換算すると、崇神天皇の御代は紀元前60年頃になり、公表されているとおり二千二百余年の歴史を有することになります。一方、崇神天皇を3世紀〜4世紀初頭にかけて実在したという見方もあり、これに従えば1600年〜1700年の歴史を持つということになります。この原稿では、奈良時代の養老4年(720年)に成立した日本最古の正史である「日本書紀」に従います。
二千二百余年前の創建から、天平勝宝4年(752年)までは山頂に霊石を祀る山岳信仰の聖地「石尊大権現」でした。天平勝宝4年(752年)に東大寺を開山した奈良時代の名僧、量弁により不動明王を御本尊とする神宮寺、雨降山 大山寺が創建され廃仏毀釈まで続きました。こちらは、約1260年という長い歴史があります。ちなみに良弁は相模国の柒部氏の出身であり、鎌倉生まれといわれます。
縁起
大山寺の縁起に関する境内説明板の記述を引用します。
「昔から「大山不動さん」と呼ばれた大山寺は、山号を雨降山(あぶりさん)といい、天平勝宝7年(755)奈良東大寺の別当良弁僧正が、父母の孝養のために建てたといわれる。赤子の時、大鷲にさらわれた良弁を捜して、日本国中を尋ね廻った父母が、盲目の乞食に成り果てていたのを、不動明王のみちびきで、親子の再会が出来たと、大山寺縁起絵巻に書かれている。
良弁に帰依深かった聖武天皇は、良弁親子の再会に強く感動され、大山寺を勅願寺とされた。寺はその後いくたびか災厄にあったが、鎌倉・足利・徳川幕府の保護をうけ、その都度再建された。」
御本尊
御本尊の説明も境内にある説明板から引用します。御本尊の鉄造不動明王及二童子像は国指定重要文化財です。
「本尊不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)の三体は、珍しい鉄像で、鎌倉時代(1270年頃)大山寺中興の祖、願行上人作と伝えられ、国の重要文化財である。他に平安前期(782〜897)の木造不銅像をはじめ多くの仏像がある。」
「鎌倉」との関わり
大山寺は鎌倉と同じ相模国を代表する霊場であったわけですから源頼朝を始め、北条得宗家はもちろん、足利幕府、江戸幕府にも庇護を受けました。明治維新・廃仏毀釈によって破壊された後、明治18年(1885年)に再建されました。
大山寺のホームページには、建久3年(1192年)「源頼朝は太刀を奉納して戦勝を祈願し見事成就した。ここから有名な「納め太刀」の風習が始まった。」とあります。相模国屈指の霊場であったことから考えると、当然あったことと想像できます。『吾妻鏡』を少しめくってみても次のような記述が出てきます。他にもたくさんあるでしょう。
建久3年(1192年)5月8日、後白河法皇の四十九日の御仏事が勝長寿院で行われ、大山寺から3人の僧衆が参加しています。
建久3年(1192年)8月9日、政子が産気づいた際には、相模国の各社寺に神馬を献じての誦経が行われ、大山寺と近くの霊山寺も含まれています。
源頼朝や北条氏、徳川氏などが厚く崇敬し、江戸時代に多くの庶民が参詣した大山詣は、この神宮寺 大山寺と石尊大権現を中心にした修験道ということになります。古典落語の演目『大山詣り』でも「大山石尊大権現」という名で登場します。
巡礼道は三つ
巡礼道については、「大山阿夫利神社」のページをご覧下さい。
大山本社に登る道は3本、西の「ヤビツ峠コース」、東の「大山・日向コース」、真ん中を行く最短の「大山山頂周遊コース」があります。今回は「大山山頂周遊コース」を選びました。
2つある市営駐車場のうち、「大山ケーブル駅」に近い「市営第2駐車場」に車を止め、10分程歩いて「大山ケーブル駅」からケーブルカーに乗車、「阿夫利神社駅」で下車して下社を参拝。通常90分程の山道をゆっくりと2時間程かけて登り、本社に参拝しました。
本社参拝後は来た道を戻るのではなく、東側の道を下り、「見晴台」、「二重の滝」を巡りながら下社へと戻り、境内の茶店で一服付けてから、徒歩で大山寺に参詣。「大山寺駅」からケーブルに乗り、「大山ケーブル駅」へと戻りました。