鎧ヶ淵

目 次

鎧ヶ淵

よろいがふち

富士川合戦、源頼朝の史跡

富士川合戦のとき、源頼朝がこの淵で鎧をぬで身体を洗ったと伝わります。

鎧ヶ淵

鎧ヶ淵

エリアその他
住 所静岡県富士市原田444

数ある富士川合戦史跡のの一つ

「鎧ヶ淵」は富士川合戦の史跡の一つです。「鎧ヶ淵親水公園」として整備されているからか、グーグルマップに名称があり簡単に目的地に設定できました。史跡としてだけでなく川をみながら一服できる公園としても利用できます。また、近くには呼子坂平家越、和田義盛神社、少し離れて横割八幡宮など、富士川合戦に関連する史跡が点在しています。

鎧ヶ淵

鎧ヶ淵

鎧ヶ淵

鎧ヶ淵

治承4年(1180年)10月20日、源平合戦初の本隊級による大きな合戦となる富士川合戦が行われました。この時、源頼朝がこの淵で鎧をぬいで身体を洗ったことから「鎧ヶ淵」と呼ばれるようになったと伝わります。

富士川合戦は、平清盛の嫡孫である平維盛率いる平家軍と東国武士を集めつつ進軍してきた源頼朝率いる源氏軍が富士川を挟んで対峙しました。源頼朝とは別に甲斐国で挙兵していた甲斐源氏の武田信義も駿河国目代を倒して、頼朝軍に合流します。

清盛の嫡孫との直接対決を前に身体を清めたのでしょうか

武田信義は、源頼義(988-1075)の三男、源義光(1045-1127)に始まる甲斐源氏の当主。源頼義の嫡流である源頼朝とは同流ともいえる血筋です。源頼朝の麾下に入り、治承・寿永の乱でも活躍しました。嫡流は鎌倉・室町を生き抜き、戦国時代の名将・武田信玄を輩出します。武田信玄が天下を統一していれば、河内源氏の源頼朝、河内源氏の足利尊氏、甲斐源氏の武田信玄と源氏嫡流の幕府が三代続いたことになります。

このあたりはその昔、清らかな川が流れ、「鎧ヶ淵」のある場所はとても深い淵となっていたそうです。その底知れない自然の淵をみてみたいものです。もちろん、いまでもきれいな場所ではありますが、住宅地でもあり、当然、付近には近代建築がたくさんあります。

鎧ヶ淵

鎧ヶ淵

いまの建築基準法は欧米の考え方で作られていて、純粋な日本建築で普通の家を建てるのは難しいと聞いたことがあります。アメリカとの戦争に負けたことを実感します。中国共産党の帝国主義・世界侵略と戦わなければいけないいま、今度はとにかく勝たなくてはいけないと痛感させられました。富士川の合戦を圧倒的勝利で終え、治承・寿永の乱を制した源頼朝のように。

富士川の合戦について、詳しくは下記リンクから、「平家越」のページをご覧下さい。

富士川の合戦についてはこちら→「平家越」のページへ

現地の石碑に刻まれた解説の文章がとてもよかったので、以下に引用します。

「鎧ヶ淵の伝説」(現地の説明板を引用)

 源頼朝が治承四年(一一八〇)十月富士川の合戦のとき、ここで鎧をぬいで身体を洗ったので「鎧ヶ淵」と呼ぶようになったと伝えられている。
 昔、この川はきれいな冷たい水が川幅いっぱいに流れ、この付近は底知れない深い淵になっていて、両岸の木が淵におおいかぶさっていたので、こわがって誰もよりつかなかった。
 あるとき、永明寺の小坊主が和尚のいいつけで、岸の木によじのぼって枝を切っていた。ふと過って山刀を淵の中に落としてしまった。和尚さんは「淵へもぐって拾って来なさい」という。小坊主が岸の岩の上で渦を巻いている淵をながめていると、淵の底に山刀がかすかに見えるような気がしたので、目をつぶって飛び込んだ。
 淵の底には美しい女の人が機を織っていた。「おまえが落とした山刀で、布が切れてしまった。山刀は返してやるが、わたしがここにいたことは誰にもいうではないぞ。」といった。小坊主は山刀をもらって寺へ帰った。
 和尚さんに「三年もの間どこえ行っていた」と叱られたが、小坊主は「たった三日だと思っていたのに」と不思議でならなかった。
富士市
原田地区まちづくり推進会

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