平家越

平家越

へいけごえ

富士川の戦い、古戦場

頼朝勢の気勢に圧倒された平家軍

平家越の石碑。

平家越の石碑。

エリアその他
住 所静岡県富士市入山瀬4丁目-9

源平合戦、初の源平直接対決

富士川古戦場の石碑は富士川の近く、町中にひっそりと佇んでいます。水鳥の音に驚いた平家軍が戦わずして逃げ出したとして有名な「富士川の戦い」は、源平合戦最大のターニングポイントだと思います。

平家越の石碑は現在の富士川から7km程東側にあります。

平家越の石碑は現在の富士川から7km程東側にあります。

源頼朝にとって挙兵時の「山木兼隆襲撃」、その後の「石橋山の戦い」に続く合戦が富士川の合戦です。先の二つの戦いと違い、富士川の合戦は、平清盛の嫡孫である平維盛を総大将として京都から派遣された平家軍との戦い、源平合戦初の本格的な正面衝突です。

海岸線(国道135)近くにある石橋山古戦場の石碑。

海岸線(国道135)近くにある石橋山古戦場の石碑。

『玉葉』によれば、平家方2,000騎に対し、次々と東国武士が参集、武田義信率いる甲斐源氏も合流した源頼朝率いる源氏方の兵力は40,000騎にも達していたといいます。この戦いで、平家方は気競り合いにおいて圧倒的に敗北し、初太刀を交わすこともなく退却してしまいます。平家はこの後、この劣勢を跳ね返すことができずに元暦2年(1185年)、壇ノ浦の戦いで滅亡することになります。

剣道でも、気勢で負けたら技は入りません。武道をやっている方ならわかると思いますが、気構え、気勢、気迫は精神論ではなくどんな事よりも具体的に勝敗を決定する要素です。平家は立ち会った瞬間、頼朝勢の圧倒的な気勢に飲み込まれたのではないでしょうか。それはそれは物凄い武人たちがわんさか集まっているのですから、想像しただけで身体が竦みます。

事実経過

治承4年(1180年)2月、平清盛の娘、徳子が生んだ言仁親王が即位し安徳天皇となると、いよいよ平家の専横は限界点を超えます。5月26日、以仁王が平家追討の令旨を下し挙兵、治承・寿永の乱が始まりました。令旨を受け取った源頼朝は同年8月17日に挙兵、同じ時期、甲斐源氏の武田(源)信義、信濃源氏の木曽(源)義仲も挙兵します。

平維盛率いる平家軍が京都を出発、駿河まで迫る

源頼朝は挙兵直後の石橋山の戦い(現在の神奈川県小田原市)に敗れ、山中の洞穴に隠れる程に追い詰められますが、この窮地を脱して房総半島の安房国で再起、関東最大の勢力である上総広常を始め、畠山重忠千葉常胤、足立遠元らの有力豪族を従え、10月6日鎌倉入りします。この頃、平家の大将軍・平維盛(平清盛の嫡孫)率いる数万騎の軍勢が京を出発、10月13日、駿河国手越(現在の静岡市駿河区手越)まで迫っていました。

富士山と富士川。

富士山と富士川。

源頼朝勢も鎌倉を出発

10月6日に鎌倉入りした源頼朝は10月16日、平維盛率いる平家軍を迎え撃つため鎌倉を出発します。出陣に際して、鶴岡若宮(現在の鶴岡八幡宮)では、頼朝の御願にて長日勤行が行われました。法華経、仁王経、最勝王経等の鎮護国家三部経にくわえ、大般若経、観世音経、薬師経、寿命経等でした。鶴岡八幡宮が神宮寺であったことがよくわかります。

頼朝勢、黄瀬川まで進軍

頼朝勢は10月18日、足柄峠を超えます。石橋山の戦いで頼朝と平家方大将として対した大庭景親は今回も平家方に加わろうとしましたが、頼朝の大軍に先を越され河村山に逃亡します。夕方になり、頼朝勢は黄瀬川に到着。頼朝は24日を合戦の日と定めました。甲斐源氏の武田信義、信濃源氏、北条時政が二万騎を率いて合流します。

富士川を挟んで両軍対峙。武田義信の夜襲に驚き、平家軍退却

10月20日、頼朝軍は駿河国賀島に到着。平維盛・平忠盛率いる平家軍は富士川の西岸に陣を張ります。夜半になり、武田信義が背後から平家軍襲撃しようとすると、富士沼に集まっていた水鳥が一斉に飛び立ちます。平家軍はその羽音に驚き、平家方の武将、藤原忠清らは「東国の武士はみな頼朝に味方しています。うかつに京都を離れ、頼朝勢に包囲されています。急ぎ京都に帰って作戦を立て直すべきです」と進言すると、平維盛らはこれを受け入れ、夜明けを待たずに京都へと退却しました。

平家越の石碑とともに、飾られた絵のアップ。中央が「兵衛佐源頼朝公」。右は佐々木四郎高綱」、左は「千葉常胤」。この逞しい頼朝はイメージぴったりです。

平家越の石碑とともに、飾られた絵のアップ。中央が「兵衛佐源頼朝公」。右は佐々木四郎高綱」、左は「千葉常胤」。この逞しい頼朝はイメージぴったりです。

頼朝、追撃せず。義経と対面

翌10月21日、頼朝は退却する平家軍を追撃しそのまま上洛するよう命じますが、千葉常胤三浦義澄上総広常らが「常陸国の佐竹など東国には武勇に驕る者が多くあり、まずは東国を平定した後に西国へと進むべきです」と諌めます。頼朝はこれを受け入れ、黄瀬川に戻ります。遠江国には安田義定、駿河国には武田信義を配置しました。

同じく21日、頼朝に加勢するため、奥州藤原氏のもとにいた頼朝の弟・義経が頼朝のもとを訪れ、兄弟対面を果たします。この後頼朝は三嶋大社に参詣、祈願成就に感謝して神領を寄進しました。鎌倉に戻った頼朝は、まずは東国平定の言葉どおり、同月27日、常陸国の佐竹氏追討に出発しました。

平合戦最初の本隊同士の立ち会い、富士川の戦いにおいて、気勢で平氏を圧倒した頼朝は、元暦2年(1185年)4月、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、文治5年(1189年)9月には奥州藤原氏との奥州合戦に勝利して、治承・寿永の乱を平定しました。そして建久3年(1192年)征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに鎌倉幕府が開かれたのでした。

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