富士の巻狩り
目 次
富士の巻狩り
ふじのまきがり
富士の裾野で行われた「鎌倉」の一大武芸演習
建久4年(1193年)5月8日、治承・寿永の乱を制した源頼朝は一ヶ月に及ぶ大規模な巻狩を富士の裾野で行いました。富士山を堪能できる史跡巡りです。
エリアその他
住 所静岡県富士宮市猪之頭1114-4
治承・寿永の乱を平定、「武威の都、鎌倉」の武芸を天下に示す
源頼朝は建久4年(1193年)5月8日、富士の巻狩りへと出発します。帰路に着いたのは6月7日。仮屋を建て1か月にも及ぶ大規模なものでした。場所は現在の朝霧高原あたりであったといわれ、「もちやレストラン」の敷地内に「富士の巻狩り史跡」の石碑が建てられています。
車を停めて石碑の前に立ってみます。背後に富士山がみえるものの、周囲にはレストランなどの近代建築物、石碑の前に無造作に置かれた「駐車場こちら」の看板、背後のゴルフ場などがあります。気分を持っていかれそうになりつつ、集中力を高め、想像力で補います。
源頼朝は、元暦2年(1185年)4月25日、壇ノ浦の戦いに勝利して平家を倒し、治承3年(1184年)1月20日、粟津の戦いで木曽義仲を倒し、文治5年(1189年)9月3日、奥州藤原氏を討って、治承・寿永の乱を完全に平定。建久3年(1192年)7月12日、征夷大将軍に任じられます。富士の巻狩りはその翌年の建久4年(1193年)5月8日ですから、鎌倉殿の武威と嫡子頼家が後継者であることを天下に知らしめた、晴れの舞台であったと思います。
晴れの舞台に相応しく、北条義時、足利義兼、山名義範、小山朝政、小山朝光、里見義成、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村、和田義盛、梶原景時など、数え切れない程の有力御家人が御供を務め、これまた数え切れないほどの射手が参加したと『吾妻鏡』には記されています。
後白河法皇崩御の御一周忌まで諸国に狩猟を禁じていたところでもありますから、参加した御家人(射手)たちは、頼朝の前で奮起したに違いありません。
源頼家が武功を挙げる
この巻狩で源頼朝の嫡男・頼家は初めて鹿を射とめます。源頼朝は喜び、これを鎌倉にいる正室・政子に伝えます。政子は「武家の嫡子が野の動物をとったくらいでわざわざ知らせるほどのことではない」と言ったと『吾妻鏡』にあります。このまま受け取れば逞しさに欠けるコメントに思えません。
源頼朝が従えているのは、弓馬の接近戦で命のやり取りをし、熾烈な駆け引きで家を守っている御家人たちです。今日では出会うこともない、化物のような恐ろしい強面であったでしょう。そんな御家人たちを従えるには、我々では考えられないくらい武芸が重要であったと思うのです。
頼朝の後継者である頼家が一大軍事演習で初めて武功を挙げたことは、大きな出来事だったでしょう。戦場にもいかず、高貴な家柄でもない政子にはわからなかったのでしょうか。考えが巡ります。
曽我兄弟の仇討ち
富士の巻狩りの現場を訪れるのは、治承・寿永の乱を平定した源頼朝の武威を示した晴れの舞台であるという点が最大の魅力でが、有名なのは、日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟の仇討ち」でしょう。ちなみに、日本三代仇討ちは、赤穂浪士、伊賀越え、曾我兄弟の三つです。
富士の巻狩りが行われていた建久4年(1193年)5月28日、曾我祐成(そが・すけなり、1172-1193)と曾我時致(そが・ときまさ、1174-1193)の兄弟、通称、曾我十郎・五郎が、父の仇・工藤祐経を討ったのが「曾我兄弟の仇討ち」です。
曾我兄弟の父、河津祐泰(かわづ・すけやす、1146-1176)は、源頼朝と縁のある伊東祐親(いとう・すけちか、?-1182)の嫡男。安元2年(1176年)、伊東祐親を恨んでいた工藤祐経は伊東祐親に刺客を放ちます。その時、曾我兄弟の父である河津祐泰が刺客の放った矢で殺されてしまいました。こうして父を討たれたことから工藤祐経は曾我兄弟にとって父の敵となりました。
富士の巻狩りが行われていた建久4年(1193年)5月28日深夜0時頃、現在の静岡県富士宮市の旅館で遊女と遊んでいた工藤祐経を曽我兄弟が襲い、祐経を討ち取ります。兄・十郎祐成は仁田忠常に討ちとられ、弟・五郎時政は捕らえられました。
翌29日、五郎時政は源頼朝の前に召し出されます。事情を聞いた頼朝は、五郎時政は勇士でもあるとして許すべきか迷いまが、工藤祐経の子、犬房丸の訴えにより犬房丸に引き渡され、即日、梟首されました。時に五郎時政、20歳でした。
曾我兄弟には越後国・久我窮山(現 国上山)に僧となっていた弟がいました。父である河津祐泰なき後、母が平賀義信に嫁いでおり、平賀義信がこの弟を連れて鎌倉に参上し、源頼朝の尋問が行われる予定でしたが、これを聞いた弟は、梟首されると聞き自害してしまいました。源頼朝は事情を聞きたかっただけなのでした。
源頼朝は、曾我兄弟に対しては温情を示しており、養父の曾我祐信に暇を与え、年貢を免除し、兄弟の菩提を弔うように命じています。また、曾我十郎祐成には大磯の虎という妾がおり、二十一日の法要の後に出家し、長野の善光寺に向かいました。
曾我兄弟の弟、五郎時政は箱根権現(箱根神社)に稚児として預けられました。子供の頃に読んだ『曽我物語』には、源頼朝の箱根権現(箱根神社)参拝に従ってきた工藤祐経を付け狙い、逆に諭されて短刀を授けられる一幕があったと記憶しています。その刀で五郎時政は、工藤祐経にとどめを刺しました。
討たれた工藤祐経の子孫は建武2年(1335年)日向に下向し、大名・日向伊東氏となり、江戸時代には飫肥藩(おびはん)藩主となりました。
『吾妻鏡』該当部分の要約
長くなってしまいますが、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』から、該当部分を要約してみます。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月28日(要約)
建久4年(1193年)5月28日、小雨の後、晴れ。子の刻(午後11時〜午前1時)、伊東祐親の孫、曾我十郎祐成と五郎時政が、富士野の神野(現・静岡県富士宮市内野字上野)の旅館に押し入り、工藤祐経を殺害した。一緒にいた王藤内もともに殺害された。
祐経・王藤内の相手をしていた遊女、手越の少将と黄瀬川の亀鶴らが悲鳴を上げ、曽我兄弟は父の敵を討ったことを大声でふれた。旅館は大騒動となった。曽我兄弟は近くにいた御家人たちに疵を負わせたが、兄・十郎祐成は仁田忠常に討たれた。
弟・時政は源頼朝の御前めがけて走った。頼朝は御剣を取り立ち向かおうとしたが大友能直が押し留めた。この間に小舎人の五郎丸によって弟・五郎時政は取り押さえられた。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月29日(要約)
翌29日、曾我時政は源頼朝の御前に召し出された。狩野宗茂、新開実重が夜討について尋問したところ、十郎時政は怒った。
「祖父伊東祐親法師が殺害され、子孫は零落(落ちぶれた)し、将軍の側近くに仕えることはできないけれども、最後の所存を申すに、汝らを通して伝えることはない。直接言上したい。早く退け」。源頼朝は思うところがあり、直接事情を聞いた。十郎時政はこう言った。
「工藤祐経を討つことは、父の恥を雪ぐためであり、ついに積年の志を披露することができました。祐成は9歳から、時政は7歳の年から、片時も復讐を忘れたことはありません。そして遂に仇討ちを果たしました。(頼朝)の御前に参ったのは、工藤祐経が御寵愛を受けていたというだけでなく、祖父祐親が御勘気を受けていました。色々と恨みがありましたので、頼朝に拝謁した上で自害するためでした」。これを聞いた皆は舌を鳴らした。
次に仁田忠常が十郎祐成の首を持参し、五郎時政が見分した。頼朝は、五郎時政は勇士であるから許すべきかとためらった。しかし、工藤祐経の子の犬房丸の訴えにより、五郎時政の身柄は犬房丸に渡された。五郎時政は20歳だった。犬房丸は鎮西中太にそのまま梟首させた。(曽我兄弟の父である)河津祐泰は安元2年10月ごろ、伊豆の狩場で思わず矢にあたって命を落としたが、これは工藤祐経の仕業だった。この時、十郎祐成は5歳、五郎時政は3歳だった。成人の後、工藤祐経の仕業であると知り、宿意を遂げたのであった。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)5月30日(要約)
30日、曾我兄弟は、最後に書状などを母に送っていた。源頼朝はこれを召し出した。幼少の頃から父の敵を討ちたいと願っていたことが書き綴られており、頼朝は涙を拭いながらこれをご覧になった。そして永く文庫に納め置くようにしたという。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月1日(要約)
曾我十郎祐成の妾、大磯の「虎」という遊女が召し出されたが、調べの結果、罪はないとして放免された。また、僧となっていた五郎時政の弟がいた。父・河津祐泰が討たれて5日後に産まれ、伊東祐親の次男、伊東祐清の妻に引き取られた。祐清が平家について北陸道合戦で討ち死にした後、その妻は平賀義信に嫁いだ。五郎時政の弟もそれに従い、武蔵国府(現 東京都府中市)にいた。工藤祐経の妻子がこの弟も同罪であると訴えたため、尋問するため、平賀義信に遣いを送った。曾我兄弟の継父・曾我祐信は恐怖したが、曾我兄弟に同意した証拠はないとして許された。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月3日(要約)
富士の巻狩りの間、常陸国久慈の者たちが御供をしていたが、曾我兄弟の夜討の際、逃亡してしたため、彼らの所帯などを没収した。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月5日(要約)
曾我兄弟の仇討ちがの事が広がり、諸国は騒然となった。常陸国の大名、八田知家と多気義幹は日頃から国内で権力争いをしていた。八田知家は今回の仇討ちに伴って参上するにあたって、策を講じた。身分の卑しい男を義幹のもとにつかわせ、知家が義幹を討つため軍勢を整えているという虚言を言わせた。これを聞いた義幹は軍勢を集めて多気山城に立てこもった。
知家は再度義幹のもとに使いを送り、「富士野の旅館で狼藉があったとの風聞があるので、只今参上するところである。同道されよ。」と伝えた。義幹は「同道しない」と答え、ますます防御の支度をしたという。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月7日(要約)
源頼朝は富士の巻狩りを終えて鎌倉に向かって出発した。曾我兄弟の養父である曾我祐信は頼朝の御供を務めていた。頼朝は道中、祐信に暇を与え、年貢を免除し、曾我兄弟の菩提を弔うように命じた。これは曾我兄弟の勇敢な行いに頼朝が感動したからであった。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月12日(要約)
八田知家が、多気義幹に野心があると訴えてきた。源頼朝は驚き、義幹を召し出すよう指示した。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月18日(要約)
曾我十郎祐成の妾、大磯の虎が亡夫の二十一日目の忌日にあたり、箱根山別当行実の坊で仏事を行った。祐成が虎に与えた馬などを施物に充てた。虎はそのまま出家し、信濃国の善光寺に赴いた。19歳だった。これを聞いた僧俗は皆涙した。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)6月22日(要約)
多気義幹が参上した。八田知家とともに訴訟の対決が行われた。知家は「曾我兄弟の狼藉を今月4日に知り、参上しようと義幹を誘いましたが、義幹は一族郎党を集めて多気山城に立てこもり、反逆を企てました」と訴えた。義幹は陳謝したものの内容が不十分だった。軍勢を集めたことは事実であり言い逃れできなかった。結果として、常陸国筑波郡、南郡、北部などの所領が没収され、身柄は岡辺泰綱に預けられた。没収された所領は今日、馬場資幹に与えられた。中原広元が奉行した。
『吾妻鏡』建久4年(1193年)7月2日(要約)
平賀義信が、越後国の久我窮山(現 国上山)にいた曾我十郎祐成の弟を連れ、鎌倉に到着した。弟は今日梟首されると聞いて甘縄のあたりで念仏読経の後、自殺した。梶原景時がこれを報告すると、源頼朝は大いに悔やみ嘆いた。死罪にしようとする気はなく、兄に同意してたのか尋問するだけのための召し出しだった。
「富士の巻狩り」を堪能するために、ふもとっぱらキャンプ場へ
富士山とその裾野を眺めながら、ここまで書いてきたようなことを連々考えてゆっくり過ごすにはどうしたら良いかな、と考えて、有名な「ふもとっぱらキャンプ場」に向かいました。
標高830mの朝霧高原にあり、富士山までスカッと抜けた景色と何もない裾野が素晴らしいキャンプ場です。テレビでも登場していますからご存知の方も多いと思います。もしかしたら、日本で一番有名なキャンプ場?かもしれません。
正月明けてすぐ、1月の第一週でしたから空気も澄んでいて鎌倉方面から往路の景色も最高でした。現地に到着すると、気温は体感で昼7、8度、夜が零下4度くらいの感じでした。
まずは受け付けを済ませます。何だか、家族連れが多い場所にしては、アウトドアの服を着こなしつつ、冷めた感じのスタッフの方が目立ってました。有名だからみたいな感じなのかな? と思いつつ、馴れ馴れしいよりはましかと思い直して、車で好きな場所に移動します。
寝っ転がって富士山が見える位置にテントを張って、荷物を運び込みます。いつものキャンプ&野営は50Lのリュック一つで余裕があるくらいの荷物ですが、今回は小学生の娘と行くとあって、10倍の量。。
でもこの日初張りの5人用テントが大変快適でテンションが復活。ハロアウトドアさんで購入したドイツ製の「ハイピーク アモラ5」(https://www.hallooutdoor.com/?pid=135852062)は、5人用のほぼ自立式テント。しっかりした作りでありながら11kgと比較的軽量で価格も45,000円とお手頃(2019年購入)です。
このテント、メッシュが多用されており、特に出入口もメッシュにできる点は個人的に一番のポイント。メッシュというと夏場便利といわれますが、目が細かくてしっかりしたメッシュなので冬場も活躍します。普通は、景色を見たくて開けると寒い、かといって閉めると景色が見えません。
しかし、メッシュなら景色を見ながら暖房も効かせられます。フルクローズよりは寒気がありますが、目の細かなメッシュのおかげで冷たい風が直接あたらず、石油ストーブを炊いた室内は十分にぼかぼかでした。もちろん夏場も大活躍しそうです。緻密に意識の高いスノーピークもいいですが、、ゆとりを感じるドイツのハイピークもおすすめです。
今回は焚き火も
風も弱かったので、子供が喜ぶ焚き火も楽しみました。いつもは薪拾い&割り・火の世話が面倒くさく、かつ煙いのでほとんとやらないのですが、子供が楽しそうにしてるといいものです。
火遊びが終わったら煙いので早々に消化して、石油ストーブ&電気毛布で温まります。大荷物を覚悟するキャンプなら、この組み合わせが最高。石油ストーブは調理もできて一石二鳥です。
富士の巻狩りを想像しつつ、娘の世話をして、富士山を眺めて、楽しい取材でした。で、最後に出口付近でゴミを捨てるのですが、ここでもなんとなく慣れた&冷めたスタッフの方。。良いキャンプ場なのにもったいないですね。帰りしなに風の湯で温泉に浸かって「温まって」帰りました。